そら豆とピタゴラス:初夏の味覚にまつわる哲学者の逸話
季節は二十四節気の「小満」。
そら豆が美味しい初夏の季節となりました。八百屋さんに並ぶ大きくて青々としたその鞘を見るたびに、何だかみずみずしい気持ちになります。
子供の頃はそら豆の揚げ豆が大好きで、殻を取ってから口に入れ、歯でふたつに割るのがお気に入りでしたね。後味ちょっと塩辛い思い出です。
「ピタゴラスの定理」で有名な古代ギリシャの哲学者ピタゴラスは、「そら豆を嫌っていた」という事実がよく知られていたそうです。その理由は「そら豆の中に死者の魂が含まれている」と信じていたから。そら豆の茎は、実は空っぽの中空構造です。空洞になっていることから「そら豆は地上と冥界をつないでいる」という印象を持ったみたいですね。
冥界から茎の空洞を通って、死者の魂はそら豆に宿る。ギリシャ神話では、冥界は地下深くにあるとされているので、地下から死者が上がってくるという発想はなんとなくわかります。
茎の中には何も入っていないのに、スクスクと成長するそら豆。その姿を見るにつれ、無に対する底知れない恐れのようなものがあったのかもしれません。いち数学者のピタゴラスとしても。有か無かの問題としても。一説では、ピタゴラスは追っ手から逃げている途中に、そら豆の畑に行く手を阻まれてしまったそうです。
そら豆の畑を走り抜けるのか。
追っ手に捕まるのか。
選択を迫られたピタゴラスは捕まることを選び、そのまま殺されてしまったのだとか。最後は忌み嫌っていたそら豆によって、冥界行きの引導を逆に渡されてしまったピタゴラス。何とも不思議な巡り合わせです。
日本では、鞘が上に向かって育つので空豆(天豆)と言われる縁起物。無上の喜びを噛みしめて、美味しくいただきたいですね。
ライター:山田直(ヨガ講師)