はやぶさの日

「はやぶさたん、てのがいるわけよ」

焼酎の小瓶を2本ほど空けたぐらいで、課長さんが言った。

「萌え、って、分かる? そういうのがね、好きな人たちがいてね…っていうか、はやぶさって分かる?」

分かりませんと答えた。

場所は韓国の片田舎にある参鶏湯の店で、「はやぶさ」初号機の帰還の前の年で、彼女はJAXA広報の課長だった。一緒に飲んでた兄さんは、ポルノグラフィティのアポロに出てくる「僕らが生まれてくるずっとずっと前にはもう、アポロ11号は月に行ったっていうのに」という冒頭の歌詞に憤っていた。その彼の背後から指で鬼のツノを生やして小学生のように遊んでいたNECの兄ちゃんも含め、私以外はほぼ同い年で、アポロの月着陸に湧いた時代に生まれた奴らだった。生粋のJAXAの人は課長さんだけだったけど、みんな宇宙の仕事をしていた。

日本に帰ったらメールが来て、片目に青あざのついた女の子のイラストが添付されていた。それが小惑星探査機「はやぶさ」との出会いだった。

私は普通に「はやぶさ」を知らなかった。

2010年6月13日に「はやぶさ」は、地表に向けて帰還カプセルを送り出し、オーストラリアの夜空に美しい流れ星になって散った。世間はワールドカップに湧いていたように記憶している。日本のテレビ局だってオーストラリアに現地入りしていたけど、さすがに「はやぶさ」帰還を生中継で流す局はなかった。こんなことは初めてで、あんな綺麗な絵が撮れるなんて確信は誰もなかった。私はそう遅くない時間に家に帰って、夜中の5分のニュースで再突入を確認して、普通に寝た。帰還カプセルが現地で無事見つかるか、回収できるか、どんな状態かの方が気になっていた。ある意味、散ってしまった探査機本体よりカプセルに興味が向いていた。その後に続いたフィーバーはすごかった。

いつだったか、少なくとも帰還直後ではなく、ひょっとしたら一年ほどは経っていたか、私は「はやぶさ」の地球帰還のシーケンス(動き)を説明する必要に迫られて、分からないところを調べたり、人に聞いたりして勉強していた。不慮の事故でコントロールを失って、思わぬ場所(都市部とか)への弾丸になってしまわないように、「はやぶさ」は直前の運用まで地球には直行しないルートを進んでいた。太陽を中心に回る地球のその外側を、ぐうっと回り込んで「はやぶさ」は地球の夜の面に落ちる。そこまで理解が到達した時。

それで夜だったんだ。

私は慄然とした。

地球の公転軌道の外側が、夜なんだ。

そんな当たり前のことを知ったのが、この時だった。「はやぶさ」は夜の側で再突入する理由があったんだ。地球にたどり着いたのがその時刻だったのではなくて、太陽とは逆側に回り込むものだったんだ。そうか、時刻というのは、夜だとか昼だとかいうのは「位置」なんだ。

この衝撃をどう言っていいのか分からなかった。アルキメデスのエウレカか、ヘレンケラーのウォーターか、そんな脳髄に電撃が走るような理解だった。本当にシンプルで、教科書では小学校で習っているはずのことを、私は初めて知ることができた。その日から私の足は、平たい地面ではなく、巨大な球体の上に立つようになった。夜に中天で光る満月を見上げれば、太陽の存在は自分の足もとの遥か下方に感じるようになった。

「はやぶさ」の帰還から2年が経った2012年6月13日、私は神奈川のJAXA相模原キャンパスにいた。初号機のプロマネだった川口先生が、次のターゲットの小惑星は1999JU3で、淳一郎の「JUさん」だと思えば覚えやすいと言って場を沸かせていた。当時「はやぶさ2」のプロマネだった吉川先生が、実物大模型を前に初号機と二号機の違いを説明していた。(JAXAの施設がある都市のグループである)銀河連邦の首長として出席した相模原市長を交えて、「はやぶさの日」の認定があった。というか、記念日の制定や申請をしたのは銀河連邦なので、ほんとはJAXAの面々がおまけだ。

2014年12月3日昼、種子島からH-IIAロケット26号機が「はやぶさ2」を宇宙へ送り出した。失敗や延期でターゲット天体が変わる可能性があるからだろうか、小惑星1999JU3に名前がつけられたのは打ち上げ成功後だ。2015年の夏から秋にかけ、一般公募を経て、「JUさん」はリュウグウという名前になった。

今度のはやぶさのターゲットマーカー(小惑星での着陸の目印のために落とすボール)には、私の名前も乗っている。2003年の初号機打ち上げの時には「はやぶさ」の存在すら知らなかったので、初号機のキャンペーンにはもちろん応募しなかった。私は2017年の9月で宇宙業界を離れた。「はやぶさ2」のターゲットマーカーは、2018年10月、確かに小惑星へ届けられた。

私はこの文章を2019年6月13日に書いている。なんとなく、2020年の6月13日のちょっと前に公開できたらいいかなと思っている。予定通りに行っていれば、「はやぶさ2」はリュウグウでの仕事を終えて地球への帰路の途中だろう。年末にカプセルの再突入が予定されている。同じ考え方で行くなら、その再突入もまた夜の面になるだろう。そうでなかったとしたら、それもまたきっと軌道工学の要求か、あるいは何かしらの理由に基づく、意味のある選択なのだと思う。

2020年、「はやぶさ2」はどんな様子だろう。「宇宙機は順調に不調です」とまで言われた初号機は、トラブルゆえに愛されてしまった面もある。ピンチからの努力での脱却は確かにドラマティックだ。でも2号機は、どうか、堅調に順調でありますよう。冬には無事にカプセルを地上へ落として、また次の航海に向かってほしい。初号機も当初計画していながら向かうことのできなかった、荷物のない気ままな宇宙の旅に。

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