新井白石の慧眼
秘密貿易船打払い令
幕府は、正徳五年(1715年)に正徳新例を発令し、長崎貿易の大改革を実施した。
これに対して、船数、信牌による規制をうけ打撃を受けた唐船による抜荷、すなわち密貿易が激増した。そこで幕府は、享保二年(一七一七)末から、唐船の打払い策を実行した。しかし、さしたる効果がなかったため、鉄砲による唐人殺傷を許可する厳しい打払いを断行した。これが、秘密貿易船打払い令である。
密貿易
密貿易とは、唐人屋敷に在留している唐人と唐人屋敷内であるいは、渡来する唐船を海上で待ち受けての密貿易などをおこなっていた。いわゆる瀬取りである。
唐人はそれだけではなく、①上陸して水をとり木を伐る、②漁船が獲った魚や海老、さらには女、子どもが拾った海草などを奪い取る、などの不法行為を働く、③土地の住民がこれをとがめると武器によって拒む、④警備の船が近づくと大砲をうつなど、武器によって抵抗する、という唐人の法令を守らない行為が横行しているので、法令を守らせる必要がある、と長崎奉行が幕府に上申した。
外国人宥和策の誤り
新井白石は、このような事態に立ち至った原因が、元禄時代の幕府の政策、それは外国人を穏やかに扱うことを基本とした政策、すなわち外国人宥和策にある、と判断した。例えば、長崎奉行所の下級役人が、唐人に軽ろんじられ馬鹿にされたため、刀を抜いて唐人に軽い傷を負わせたさい、奉行所はこの下級役人を追放した、ということがあった。そのような扱いが重なって外国人が勝手気ままになり、現在の事態に至った、と白石は理解したのである。(『武人儒学者新井白石』藤田 覚著)
歴史は繰り返す
しかし、民主党政権化で同様のことが再現された。
平成22年(2010年)9月7日に尖閣諸島沖の領海内で発生した海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件で、当時の菅(かん)直人首相が、逮捕した中国人船長の釈放をしたのである。ただし、当時は、これを「検察独自の判断」と強調し、政府の関与を否定してきたのである。
帰国後の船長を出迎えたのは、鐘や太鼓そして花火を打ち鳴らしての大歓迎だった。
「日本は非を認めた」「船長は英雄だ」と大いに喧伝された。
悪夢のような民主党政権は菅や野田などの「ド素人集団」、「烏合の衆」に過ぎず、大いに国益をそこねることになった。
日本は何をやっても手を出さない。手を出さないどころか、完全に腰が引けていると「舐めている」のである。
台湾への包囲演習も、日本は手出ししないだろう、できないだろうという前提にたっている。
さて、日曜日の投票日、即日開票で、旧民主党、立憲民主党は復権できるだろうか。おそらく投票率は最低を記録するだろうし、それは自民党もだめなら、野党も全てだめという意思表示なのだが、それを改める方法はない。新井白石を生んだ日本はもう復活できないだろう。
日本はどこへ行くのか。