電車のつり革の、輪っか越しに見えた世界
最近、気になっていることがある。それは───
「電車のつり革」だ。
そもそも、なぜ電車につり革があるのか。
それは電車が揺れるから。電車が揺れれば、乗っている人も揺れる。座っている時はさほど気にならないが、立っていればその揺れで倒れるかもしれない。そうならないためにつり革がある。にも拘わらず、
揺れる電車内で、つり革につかまらない人がいるのだ。
揺れて不安定なのはみんな同じはずだし、実際私がつり革や手すりにつかまらずどこにも寄りかかれなかったら、酔っ払いの千鳥足状態で電車内を右往左往することになるだろう。
電車が揺れ、自分も揺れて不安定なはずなのに、なぜ、つり革につかまらない人は、つり革につかまらないのだろう?それは───
つり革につかまらなくても「倒れない」からだ。
では、なぜ倒れないのか?
それは「小さい頃からの移動手段の違い」に、その理由があるのではないだろうか。
例えば、首都圏出身の人たちは幼少期から当たり前のように電車に乗っている。それに対し田舎出身の私は、どこかへ出かけるといえば車か徒歩、あるいは自転車で移動していた。
電車もあるにはあったが、一時間に一本程度、しかも電車は一両。とてもじゃないが「生活の足」にはならない。お出かけといえば車移動が田舎の基本である。
つまり、つり革につかまらない人の多くは、小さい時から電車に乗っていて、電車の「揺れ」に慣れているのだ。そもそも子供の身長ではつり革に届かないのだから、揺れに慣れて倒れないようにするしかない。
そのため、幼い頃から電車内で「波乗り」している都会の人にとってはさざ波でも、大人の私にとって、いきなりその波を乗りこなすのは容易ではない。揺れに対する「慣れ」という経験値が違いすぎるのだ。ただ───
私は、電車ではつり革につかまらないと立っていられないけれど、雪道は転ばすに歩けるし、走ることだって出来る。それに多少の雪道なら自転車にも乗れる。もちろん転倒せずに。
なぜなら私の田舎はちょっとした雪国だったためであり、どうしたら滑るか、どうしたら転ばないかを身体が知っているからだ。
つまり、揺れる電車でつり革につかまらなくても転倒しないのと同じように、私は雪道を転ばずに歩いたり、走ったりできるのである。
電車に乗っていてつり革につかまっていない人を見ると「都会生まれの人なのかな?」と思ったり、つり革につかまっている人を見ると「私のように電車に乗る習慣のない田舎や地方から都会へ出てきた人なのかな?」などと想像するのはなかなか楽しい。
電車内の振る舞いだけでそれほどの違いがあるのだから、世界規模で見たら、そうした違いが特徴や特色となって、その国や地域、性質といったものをカタチづくっていくんだろうな、ということがわかる。良くも悪くも、環境が人を作るのだ。
電車のつり革の輪っかの向こうにはきっと、私が想像だにしない世界や価値観が拡がっているのだろう。そして最近───
つり革につかまることなく、当たり前のように揺れに抗うことなく揺蕩っている人を見るたび私は「柳に風」という言葉を思い浮かべる。
「柳に風」とは、逆らわずにうまく受け流すという意味のことわざで、強風が吹いたとき、堅い枝なら折れてしまうかもしれないけれど、柳はしなやかになびくので、ポキッと折れてしまうことがない。
そうしたことから、柳が風に身を任せて揺れるように、逆らわずにさらりと物事を受け流す、という意味を持っている。
例えば、人から悪口や嫌みを言われたり、いじわるをされたりしても、そんな「風」を何事もなかったかのように「柳」のようにやり過ごす。それが「柳に風」である。
必要以上に力が入れば電車の揺れに耐えられずに倒れてしまうように、悪口や嫌みといった周囲のよからぬ声を必要以上に気にすれば、きっと自分に大きなダメージになるだろう。
電車の揺れ、周囲のよからぬ声、そうしたものを力まずに受け流すことが出来たら倒れることなく、必要以上に傷つくことはないのかもしれない。
電車の中でつり革につかまっていないのに、揺れながらも安定している人の姿を見るたび、そんなことを思う。
とはいえ、みんながみんな、柳に風の如く、常に強く逞しくそしてしなやかに生きていけるわけじゃない。世間の声や荒波を受けて倒れそうになったり、転んでしまうこともあるだろう。
そんな時は、無理せず「人生のつり革」につかまるといい。ただ───
人生という名の電車すべてにつり革があるとは限らない。もしなかった時は、電車を乗り換えればいい。ずっと同じ電車に乗っていなければいけないわけじゃないのだから。
乗り心地の悪い電車などさっさと降りてしまおう。乗り換えの電車はきっと、まだまだあるはず。
つり革の輪っか越しには、穏やかに晴れた空と、新しい人生の景色が見えるはずだ。
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