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いのち

私は中学生とか高校1,2年生のころ、けっこう“better never to have been”なんて思ったものだった。
というか、いまでもときどき思う。
親には申し訳ないけれど。
ただ、中学生、高校生のころの思いと大学生での思いはだいぶ様子が違っている。
中学生、高校生のころの思いは、現実のつらさが理由で、大学生のいまは、どちらかと言えば、将来への不安が理由で。
現実がつらくなくなったのは、いいことなのかもしれない。
それでも、過去と未来につぶされそうにはなるけれど。

今日は、カレに会いに京都へ。
待ち合わせはさらし首で有名な三条河原の橋の下。
私は長距離移動をするとき、時間にかなり余裕をもって動くほうで、40分前には四条河原町に着きそうだった。
さすがに早すぎた。
京都のバスの速さは平均するとナメクジぐらいと聞いてたから、私はそれを真に受けて、京都駅からマチナカへの移動時間をやたら長く見積もってしまっていた。
ナメクジどころか人間よりもよっぽど速かった。

運賃を現金でじゃらじゃらと払って、降りる。
降りた瞬間、京都の強烈な熱気を全身で感じる。
街は明るくて、ほうとうに人が多い。
歩いている人はだいたいみんなおしゃれだし、スラッとスタイルが良く、背の高い人がたくさん歩いている。
高島屋の自動ドアからは冷気が漏れてきて、心地いい。
京都は夕方でもかなり熱いから助かる、なんて、冷房がきいてるバスから出てきたばっかりなのに思う。

さて、時間もあるから、新京極商店街のほうをゆっくり歩くか。
横断歩道を渡って、ゆっくり人にぶつからないようにしながら、人混みを歩く。
やっぱりこれだけ暑いと夕方に人が集中するのだろうか。
昼にこのあたりを歩くことはないからよくわからないけれど、夕方でも人が多い。
疲れるな、と、人混みが極端に苦手な私は思った。

なんとか商店街の入口に着いた。
道幅が広いので、みちゆく人は多いけれど、ストレスは溜まらなさそうだ。
左右に立ち並ぶお店を見ながら、たまにアーケードの上のほうを見ながら歩く。
使えるお金はずいぶん限られているので、買い物はしない。
やっぱおしゃれな街にはおしゃれな格好していくんやな、いや、おしゃれな格好するような人がおしゃれな街に行くんか、それとも、単に私がおしゃれに興味がないからそう見えるだけなのか、なんてことを思ったり、寺の敷地の中にお店置いたのが始まりで、新京極はもともとの寺の敷地をぶち抜いた通りやって先生が言ってたな、なんて思い出したり。
買い物はせずに雰囲気だけ堪能して、三条通りまで、なんだかんだ一度も立ち止まることなく進む。
右に曲がって、信号待ちをしながら、ちらっとカラオケ屋を見て、品のある街やけど、夜は飲んだくれや飲みすぎた学生がこの前で吐いてたりするんかな、なんて想像する。
信号が青になって、私は前の人の後ろにぴったり張り付いて、人をかわす。
高瀬川、だったか、名前をよく思い出せない小さな水路でまた信号待ちし、川辺の木々に桜が咲いている情景を想像する。花がなくても風情はあるわな、とまた思い直す。

歩くのを止めなかったせいで、やっぱり早く着いた。
まだそこそこ暑いのに、遊歩道には若い人を中心に多くの人が座っており、遊歩道へ降りるスロープの下では外国人の人がギターを弾いたり英語でおしゃべりしたりしている。

いつもと違うようであったのは、なにかモニターを持った人が互いに背中合わせで3人、立っていることで、またその人達と同じような服装の人が4人ぐらい、周りにいたことであった。
募金、じゃなさそうだな、と思って近づいてモニターを見れば、そこに映るのは家畜を人間が扱うさまを収めた映像であった。
また、先の3人が立っている足元には、「この現実に目をそらさないでください」など書いてあって、ああ、なるほど、こちらの方々はビーガンなのか、と合点がいった。
そこらに座ってかばんに入っている小説を取り出して読んでもよかったのだけれど、好奇心が勝って、しばらくモニターに映るものを見て、物思いにふけることにした。

動物倫理、か。
専門書を読むまではいかなくとも考えたこと自体はあったし、共感はできるけれど、肉や魚を断つ生活を実践している期間なんて、ほとんどなかったな。
最長で4日ぐらいだった気がする。
そのときは、実践しようと思ってした、というより、単に気持ちの部分で食べる気が一時的になくなっていた、という言い方が正しかった。
いまではしっかり肉や魚を食べている。

忘れれば食べる。
きっと共感しても、忘れてしまえばもとの食生活に戻る人が大半なんじゃないだろうか。
たしか中学生のころだったか、授業で『豚のいた教室』というものを見た。
そのときは言葉がうまく使えないころで、したがってそういう授業をされたところで考えるのも困難だった。
そのときと違っていまは考える幅がぐんと広がって、一時的にものを深く考えることはできるようになったと思う。
他の人と比べたら大したことないだろうけど、むかしの自分と比べれば格段に。
でも、常に考える、あるいは習慣化するには、たぶんなにかサポートが要るんだ。
最初の身に染み込ませる過程を乗り越える必要がある。
ビーガンの方と2週間いっしょに生活をするとか、そういうものがないと、なかなか習慣化には至らない。

ぼんやりと考え事をしながら、目だけで映像を見ていると、ユニフォームを着ている60代と思われるおばちゃんに声をかけられた。
「これを見てどう思われます?かわいそうでしょ?人間の勝手で自由を制限されて、しまいには殺されて。私たちはそういうのを変えていきたいんです。あなたが家畜の立場だったら、イヤですよね?」
わかります。共感はします。でも実践できないんです。
意識できる環境が常に身近にあれば私も変われるかもしれません、と続けるのをやめて、最後に、暑い中お疲れさまです、とだけ口にした。
たぶん、私の反出生に共感を示しがちなところが、いまいち動物倫理に真剣に向き合えないところを形づくっている面もあるんだろうな。

また、しばらく考えていた。
そもそもこういう問題は、説得、というより、共感を集めるしかない。
倫理的な意味での相互性の原理が行動規範を形成する大きな要素となっている人には伝わるであろうけれど、自分がよければそれでいい、という人はどうしようもない。
これが第1の壁で、その考えが他の生き物にも及ぶのかどうかっていうのが、第2の壁。
自分と他人でも在り方はまったく違うし、もちろん人間と他の言語を使わないような生き物もまったく違う。そこの差異をとっぱらってしまって考えられる人は、どれぐらいいるんだろう。
いや、第0の壁として、一貫した思想に従った一貫した態度を取り続けられるか、というものもあるな。あ、これは実践の可否と似たよなことか。ちょっと違うけども。

そのあたりまで考えたら、“自分が”死ぬとは“自分にとって”どのようなことか、とか、言葉が使えないと見える世界はまったく違うよなぁ、とか、考えたいことが主題からそれてしまって、それについてむかし読んだ本の内容を思い出そう、なんて勝手に頭が別の方向に働き始めたので、それ以降は動物倫理についてまともに考えられなかった。


カレが遊歩道の北から、自転車を押して歩いてくるのが見えた。
暑いのに、こうやって人が多いところでちゃんと自転車から降りるとか、いつも細部まで気づかいが行き届いているとこが好きなんよなぁ。
さっきまで考えていたことは急速に頭の中で色を失い、カレと何をしゃべろっかな、というほうへと切り替わった。
とりあえず、晩ごはんは肉や魚は控えよう。
そう心に決めて、カレと並んで勉強やサークルのことについて話しながら、駐輪場に向かった。

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