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『ノルウェイの森』直子

※ネタバレ含みます。
初めてノルウェイの森を読んだのは19歳。私が大学生の頃だった。本作品の登場人物の多くが19歳から20歳の多感な時期を過ごすというストーリー展開の中で、私は1人の登場人物「直子」の人物描写にとても惹きつけられた。なぜ直子は死を選んだのだろう。そして直子だけではなく、なぜこの物語の中ではこれほど多くの人間が自ら死ななくてはならなかったのだろう。フィクションなのに、これほどまで心を揺さぶられ、どこまでも暗く深い闇に堕ちていくような物語を始めて読んだ、と率直に感じた。一部の人には作品を読むのが苦しくなるくらいにストーリー展開が重い。だが、すでに暗闇の底にいる人間に対しては救いの手を述べてくれるような、そんな作品だとも感じた。私は何度もこの物語を読み返したのだが、読むたびに本の世界観に引き込まれていったのと同時に、作中で亡くなった登場人物から「大丈夫、辛いのはあなたは1人じゃない」と励まされるようなそんな心の支えをもらえた気がした。19歳の頃の私は、女子大に通う2年生で、人生がとてつもなく長く永遠に感じていた。若い頃特有の繊細さと傷つきやすさを持ち合わせて、自分が過去に受けた傷の癒やし方が自分で分からず、途方に暮れて暗い闇の中から抜け出せない気持ちで毎日を過ごしていた。そんな時に出会ったのがこの作品だった。

以下は、直子を表す描写の切り抜きです。(作品中で私のお気に入りの描写をピックアップしています。切り抜きの順番がストーリー展開と前後していますが、ご容赦ください。)

「そうあの夜も雨が降っていた。冬には彼女はキャメルのオーバーコートを着て僕の隣を歩いていた。彼女はいつも髪留めをつけて、いつもそれを手で触っていた。そして透きとおった目でいつも僕の目をのぞきこんでいた。青いガウンを着てソファーの上でひざを折りその上に顎をのせていた」

私は女子大に通っていたため、大学にはいつも女の子がいたし、彼女らの純粋さやまっすぐさ、繊細さや感受性の豊かさをたくさん目にしてきた。直子の描写を読んだ時、その時仲良くしていた1人の女の子の顔がすぐに浮かんだ。彼女は同じ文学部で、ひときわ注目を集める子だった。ファッションセンスに優れていて、優しくて繊細でアーティスティックな一面をまとった素敵な女の子だった。まさに、この描写にある直子とそっくりな雰囲気を持ち合わせていた。

「不思議なのよ。直子は誰にあてても遺書を書かなかったんだけど、洋服のことだけはちゃんと書き残していったのよ。メモ用紙に一行だけ走り書きして、それが机の上に置いてあったの。『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』って。変な子だと思わない?自分がこれから死のうと思ってるときにどうして洋服のことなんか考えるのかしらね。そんなのどうだっていいじゃない。もっと他に言いたいことは山ほどあったはずなのに」

直子の突然の死は衝撃で、何故突然そんな選択をしてしまったのか私は理解ができなかった。自分を愛してくれる素敵なボーイフレンドがいて、信頼できる先生もいた。それなのになぜ一人で死ぬことを選んだのか。

直子は長い間自分の病気や気持ちの不安定さと闘って、悩み苦しんで、ついに心の整理がついてしまったのだろう。もう心に決めてしまったことだから、遺書に書いておきたいことや遺したい言葉など何もなくて、誰にも言わずにこの世を去ることに覚悟がついてしまったのだろう。それは一体どういう気持ちだったのだろう。苦しみを乗り越えられず、絶えず死にたい気持ちを抱え続けて、そこからやっと解放されるという気持ちがどんなものなのか。諦めにも似た境地だったのか。それでも、死を選ぶしかなかったのか。

「直子と会ったのは殆ど一年ぶりだった。一年のあいだに直子は見違えるほどやせていた。特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。彼女のやせ方はとても自然でもの静かに見えた。まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまったんだという風だった。そして直子は僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった」

この描写を私が好きなのは、二人が遠距離恋愛だったことがよく表れているからだ。ワタナベくんは彼女である直子のことをよく観察していて、彼の目線から直子の変化が詳細に描かれている。それだけきちんと直子のことを見て気にかけていたんだなというのが伝わってきて、微笑ましい気持ちにさえなった。ワタナベくんは直子のことをとても愛していたと思う。だからこそ、直子の突然の死に困惑し、理解に苦しんだと思う。


この物語は初めから最後まで順番に読まなくても、ページをぱっと開き目に止まったところから読み進めるだけでも面白い。一つ一つの文章が洗練されていてとても考えさせられるのだ。村上さんの作品は、起承転結がなくあっちこっちに話がループする。だから読み手は困惑するが、そのスタイルに慣れてくると読むのが楽しくなる。というのも、どうして村上さんはこの人物を登場人物として選んだのだろうか、どうしてこのような設定で物語を書いたのか、なぜこの人はこういう言動を取るのか、等一つ一つに思いを巡らせてみると、自分の想像力が深まっていき、小説を読む醍醐味につながると感じるからだ。私がこんなに深く物語を理解しようと務めたのはこの作品が初めてだったように思う。だからこの作品はとても思い入れのある小説なのだ。