おめでとう。成人、定年、そして誕生日
今日、父の実家の人達が、母のお墓参りに来られた。
父の誕生日が、5月5日だったので、それに合わせてかと思った。しかし聞いてびっくりした。
遠くから運転してきた私の従兄弟の誕生日が明日の9日。うちの息子と同じ誕生日だった。
そして、彼は明日で定年になる。すでに有給消化で事実上の退職済。
彼は厳しい父親に育てられ、反抗期は大変だった。
人の何倍も遠回りをした人生。何度もやり直し、最後は、若くして世界的な自動車メーカーの販売店の広域の責任者にまで昇った。
私が知っているだけで、語れば尽きないほどの半生だ。
グレ始めてから、最後の、大変な重責の管理職まで顔つきはいつも厳しかったが、今日実質上の定年を迎えた彼の顔は穏やかで、私が小さい頃の、面影が見え隠れしていた。
人に歴史あり。
どんな人生が正解か、なんて誰もわからない。
逆境にあっても、あきらめないこと、腐らないこと、私よりきっと相当純粋な人だったんだろう。だからこそ、荒れた時期もあるし、大抜擢を受けた今もあるし、穏やかな今がある。
◇ ◇
息子も明日同じ誕生日で、成人になる。
高校生なのに成人だ。
明日から、刑事的な責任は彼が背負う。
成人になるのは20歳か18歳か、という議論が何年か前にあり、それ自体のニュース報道と、未成年者の犯罪についてのニュースが重なって、肉体的にはもう大人なんだから、自分の行動に責任を持つ緊張感として18歳はありだろうな、と感じた。
私も、息子には何年か前から、18歳まではどうしても親が責任者であるから、明らかに法律に反することは口出しするけど、成人以降は極力しない、だから残りの数年はその練習期間だと思って、自分で考えて行動して欲しい、責任は俺が取ると伝えた。
さて、明日から彼は刑事的責任を負う人間になる。
そう考えると、身が引き締まる。
本当に、責任を負えるのか。
視点を変えると、社会は18歳の人間を成人とみなしているだろうか。
そんなことを考えながら、今日は天ぷらを揚げていた。
18歳の成人までに身に着けなければいけないのは、何だろう。
おかしいと思うことは、おかしいと言える対話能力じゃないだろうか。
それが言えないと、どんなに優秀でも、雇用主のいいように使われたり、変な勧誘に騙されたりして、契約内容に縛られ人生がボロボロになる。
そう考えると、目先の学力試験だけでなく、人それぞれの社会での対話能力を習得することは、とても大事じゃないだろうか。
それが成熟であり、大人のスタートラインじゃないのか。
目の見えない人や、耳の聞こえない人、判断能力を自分だけではできない人も、どうやって信頼できる人やデバイスを通じて、ガチの対話できるようになるかを習得できれば、誰もがより生きやすい世界になる気がする。
じゃぁ、その学習を誰がやるのか、学校かやるべきなのか。
それは分からない。
でも、そう思う人が増えていけば、社会の優先順位は上がっていくはず。
対話、は大事なキーワードだ。
そこには老若男女、経済的な差などはない。
対話することが、当たり前の世の中になると、日本は民主主義の国になれるんじゃないか。
もしトラの時代に。