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上半期映画ベストの総括①

      「神の祝福を」、彼女の演説はこの言葉で締められた。

 Netflixで公開になったビヨンセのライブドキュメンンタリー、’ホームカミング’。2018年コーチェラでのパフォーマンスを企画やリハーサル風景などを交えながら作られた作品。各誌が音楽史のターニングポイントだと評価したこのライブの功績を実感させられた。黒人女性として初のヘッドライナーを務めた彼女が何を思いこのパフォーマンスを行ったか、何を背負い何を果たそうとしたのか、そしてなぜ果たすことができたのか。スポ根漫画かと思ってしまうような尋常ではないフィジカルへのストイックさ、計画性やリーダーシップなどビジネス的な才能など今まで知ることのなかった彼女の人間的な部分が中心に描かれておりそここそが偉業を成し遂げた要因なのだ。ここだけ読むと情熱大陸的なやつなのか?みたいな気分になるけどそんな感じにはならない。やっぱりパフォーマンスそれ自体の圧倒的な力強さがあるからだ。感情が溢れ出すような肉体的なパフォーマンス。バックバンドも黒人大学のマーチングを意識した管打楽器中心の構成になっており原始的で縦の力が強いビートになっている。個人的に一番痺れるのはこの力強さが形を変えていきながら’受け入れる喜び’に昇華されていくライブの構成だ。序盤から中盤にかけては怒りが核として構成されている。しかもかなり過激。マルコムXの演説をサンプリングしたりJAY-Zの不貞を怒り狂いながら責める曲をセトリに組んだり。この怒りが終盤になると’ホームカミング’を経て弾けるような喜びへと変わっていく。生まれ持った体を自ら祝福するようなダンス、2分のブレイクが用意されたGet Me Bodiedでそれが花火のように輝かしく燃え上がる。

自身のパーソナリティ(例のマルコムXの引用では「アメリカで最も蔑まれているのは黒人女性だ、最も危険にさらされているのは黒人女性だ、最も無視されているのは黒人女性だ。」とあったが)を受け入れそれ祝福することで喜びに変えるというね、人類の代表になると彼女はドキュメンタリーの中で語っていたがもうなっちゃったよっていう。2時間の’演説’は歴史上のどの人物よりも観客を興奮させ勇気を与えそしてなにより説得力を持って心に語りかけた。

 祝福、上半期を振り返る上でこのキーワードはもってこいな気がする。ベストに食い込んできている作品にはこれが共通している。てかそういうのが好きなんだろうなきっと、去年とか一昨年のベストもそんな感じだし。一位はちょっと例外だけど。今年の話に戻る。ローマ、ローマも登場人物に対する祝福であふれている。キュアロン監督、いっつもアキュロン監督って言っちゃう、もインタビューでこれは自叙伝的映画で実際にお世話になった家政婦さんにインタビューをながら感謝を込めて作った映画って言ってたし。その時点でもう主人公に対する祝福なんだよな。しかもそれを映像で表現するというやばさ。お前ビヨンセかよ。

そんで旧作の推し映画Loveサイモンも自身の祝福映画。’逆13の理由’って呼んでる。13の理由5話くらいまでしか見たことないけど。周りからもそうなんだけど結局は自分が自分自身を受け入れないとどうにもならない。受け入れること、許すこと、そしてそれを周りに広め認めていくことがまさに祝福。ラブコメとしても軸のぶれない倫理観があってポジティブなメッセージがしっかりと入ってくる。ラブコメはマジで倫理観に最大限の配慮をしないと一気に冷めて笑えないし感動しないっていう地獄になるから作るのがマジで大変だと思う。

いろとりどりの家族もいい映画だったな。「『幸せは似通っているが不幸は様々だ。』と言う人がいたがそれは全く違う。」って言葉が映画の終盤に出てきたけどまさにそれ。映画の中のいろいろな家族を見てきた観客にはその言葉がえげつない説得力を持って飛んでくる。この映画にも祝福という言葉が出てくる。フィルマークスにメモっておいてよかった。「治療と祝福の線引きをどこでするか」この言葉が映画の大きな核になってくる。同性愛も以前は治療が必要な病気だと考えられていたが今では個性として受け入れられてきている。ダウン症や低身長、自閉症はどうだろうか。果たして治療が必要なのだろうか、なぜ個性として受け入れられないのだろうか。この映画を見るとこの問いについて考えざるを得なくなる。え、めちゃめちゃいい映画じゃん…ベストに入れたくなってきた…。


 祝福や救いを求めるようなキッツイ映画もあった。魂のゆくえとビールストリートは全く違う映画だったけどそこの面では近いものがある。社会の矛盾や理不尽な扱いに対してどこに救いを求めればいいのか。デトロイトのラストシーンでもそうだったが結局祈りを捧げることでしか救われない、救いを求めることができないのも一つの側面としてある。そういう八方塞がりな環境だからこそスパイクリーは止められない怒りをブラッククランズマンの中に映し出しアダムマッケイはバイスで皮肉ったのだろう。

救いのある映画ない映画どちらがいいかみたいな話ではなくこれはチャリみたいなもんで片方のペダルを踏み込んだらもう一方も踏み込まないと前に進まない。両足を交互に動かさなければ動くことはないのだ。ブラッククランズマンを踏み込んだらグリーンブックを踏み込まないといけないし(と言いながら見てない)スパイダーバースと魂のゆくえも同じだ。片面だけの現実はない、どの現実も多角的でそこを知らなければ自身の住む次元から遠ざかるだけだ。
 上半期のテーマは祝福。登場人物に対してだけではなくレゴムービー2のように作品を作りあげた人にも心からの祝福を捧げたい。ものをつくる奴らはやっぱりすげえと言いながらベストを発表したい。


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