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「燃ゆる女の肖像」、恋愛ではない何か//映研movie archive

たまには、公開中の映画の話を。
とはいえ、レビューは、アーカイブとしてレビューサイト(東大映研公式サイト内)に記録しておくために書いているので、どこかの未来で、レビューサイトのアーカイブからこの文章に偶然出会った人に向けたものにしよう。

刺激と情報から成る現代の恋愛

この先どうなるかは知らないが、これまではずっと、映画は恋愛を語ってきた。そして近年は多様性への関心の高まりとともに、男女に限定されない愛の形を描く映画が注目されるようになった。「アデル、ブルーは熱い色」は、2013年にカンヌ映画祭でパルムドールを受賞している。

しかし、一方で現代の恋愛は画一化しているように思える。メディアに溢れるのはどれも、姿形、仕草、声、等々の、相手が発信する情報に刺激されて生まれる愛である。例えばある人の顔をひと目見て、その美しさの虜となったりする。「アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜」はちょっと特殊で、真っ暗なレストランで話した相手を好きになるけど、それも言葉を交わすことで愛が生まれている。結局ここで行われていることは、相手が発信した情報によって、性的な感情のトリガーが引かれることだ。

そう考えると、現代は、SNSを通じて、個人が様々な情報を多くの人に発信できるようになったわけだから、恋愛が生まれやすくなったということになる。だけど、むしろ私たちは、その情報の海で行き場を失っているように思う。

現代では恋愛と呼べるか分からない何か

燃ゆる女の肖像」は、画家である主人公マリアンヌが海を渡り、とある島に辿り着くことから物語が始まる。その島で主人公と関わりを持つ者は3人しかいない。お手伝いさん、娘の肖像画をマリアンヌに依頼する母とその娘エロイーズ。マリアンヌとエロイーズは深く関わり合うようになるが、恋愛は始まらない。視線も、言葉も交わしているのに。

燃ゆる女の肖像」で、2人の関係性が大きく変わるのは、依頼主の母が家を空けて、エロイーズが、マリアンヌの顧客であるという関係性や、望まない結婚の圧力から解き放たれる時である。エロイーズは、恋愛する相手ではなく、彼女が抱える心の行き場を探したのだ。エロイーズの近くにはマリアンヌしかいなかったから、たまたまその行き場が彼女になった。マリアンヌが女性であることは、エロイーズにとってはそこまで重要なことではなかったのだと思う。

エロイーズとマリアンヌが特別な関係になったのは、エロイーズが、他の人には見せない心をマリアンヌに見せて、マリアンヌがその心と繋がり合ったからなのだ。確かにこの関係は恋愛なのかもしれない。しかし、「アデル、ブルーは熱い色」で描かれる性的な女性同士の恋愛とは違う性質のものである。恋愛が、刺激や性的なイメージ、情報の発信・受信で語られることが多い現代では、こうした恋愛は、もはや恋愛ではない何かになっているように思われる。

物語の舞台は18世紀末。マリアンヌはエロイーズの心を封じ込めるかのごとく、彼女の絵を描く。彼女の肖像画には、エロイーズの魂が保存されている。そしてその過程を描くこの「燃ゆる女の肖像」も、現代の恋愛ではなく、18世紀末の、現代では恋愛と呼ばれるか分からない魂の交流を描き、それを封じ込めたのだと思う。

確かに人間の間に起こる感情、しかし現代では情報の海の中で見過ごされているようなものを描き、それを保存することは、絶滅危惧種の動物を保護することと同じくらい重要なことではないか。

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