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「楽しい」が全ての原動力。29歳までの僕と30歳からの僕

 30歳は人生の区切りの一つ。ふと立ち止まってこれまでの人生を振り返り、もう一度将来の未来図を描こうと考えたくなる人も多いのではないでしょうか。

 2023年11月に、ちょうど30歳の誕生日を迎える宮土良太さんもそのお一人。地元愛媛県をこよなく愛し、大学時代にはゼロから学生団体を立ち上げ、さらに日本一周を達成するなど、思ったことを実行に移す強烈なエネルギーの持ち主です。

 現在宮土さんは、イベントプランナーなど複数のお仕事をされています。
「振り返ってみると、今の僕の立ち位置は、高校時代、大学時代、日本一周時代からつながっているなと思います」と、笑顔で語る宮土さん。「私の半生。30歳からの今後」をテーマにお話を伺いました。

1  “29歳の僕”を育んだ3つの経験

1-1 ①自分の気持ちを尊重する大切さに気づく(高校時代)

——高校時代を振り返ってみて、どんな学生だったと思いますか?

 どちらかというと自分を素直に出すことが難しく、いつも気持ちを飲み込んでいるような学生でした。

——活動的なイメージとは対照的ですね。宮土さんの中で現在の原点は高校時代にあるということですが、それは何ですか?

 僕の原点が高校時代にあると思ったのは、言いたいことを飲み込んでしまう殻を破って、大事なことに気づいたことですね。
 高校1年生の文理選択の時に、先生から「文系にしなさい」と言われてそのまま文系を選びました。本音は理系だったのですが、言い出せなかった。その後自分の気持ちに反した選択をしたことに対して、すごく後悔したんです。
 そして、3年生になって大学受験の科目を選ぶ時に、また僕と先生の間で選択科目が食い違ったんです。どうしようかと迷ったのですが、後悔した過去を思い出して、先生に自分の意志を伝えました。結局自分が選んだ科目で受験したのですが、これをきっかけに自分の気持ちを伝えることの大切さを学びましたね。
 自分の信じたことややりたいことを尊重して行動することは、今も大事にしていることですし、僕の原点だと思います。

1-2 ②学生団体をゼロから立ち上げる(大学時代)

——大学に入学されて、災害を通して愛媛でできることを考える「Connecting Heats」 という団体を設立されましたが、高校時代と比べて積極的になられましたね。

 そうですね。先輩たちがすごく行動的だったんですよ。本当に、やりたいことを地で行くような。「やりたいことはやる」というのが自然に思えてきて、僕も興味の赴くまま活動していたというかんじです。

——エネルギッシュな方が多かったのですね。その勢いで「よし、団体作るぞ!」という流れだったのでしょうか?

 いや、思いつきではないです(笑)。実は、高校時代からボランティアに興味があったんですね。その後大学に進学してボランティアで東北の復興支援に参加しました。その時に知り合った方から、「ボランティア で東北に来てくれるのはうれしい。でも、その前に自分の街の防災を考えてほしい」と言われたんです。その方には「同じ想いをしてほしくない」という思いがあって、それを知った時にはっとしました。

——「同じ想いをしてほしくない」。重みのある言葉ですね。

 そうですね。それまで全然地元の防災なんて考えたこともありませんでした。以来愛媛の防災を考えるようになり、関係機関を回って地元の防災について調べてみました。そうすると、行政の取り組みが、市民にあまり伝わっていないことが分かったんです。それなら若者に向けて情報を発信して、行政とのギャップを埋めようと立ち上げたのが、「愛媛の防災を考える学生団体」です。

——そうだったのですね。「Connecting Heats」では、主にどのような活動をされたのですか?

 2つの事業部を設置して、それらを軸に活動を行いました。
 1つは、「減災事業部」。若者を対象に、愛媛の防災や減災について考えるワークショップ等を行うのが目的です。あるワークショップでは、企業や消防署の人を交えて意見交換などを行いました。これは、企業と消防署、そして学生のフラットな意見交換の場となって、みんなで愛媛の防災を考えるにはいい機会だったと思います。
 もう1つは「魅力発信部」です。ボランティアで東北を訪れた時、そこに息づく文化や人に魅了されました。でも、多くの人は被災地という面でしか東北を見ていない。これはもったいないなと思って、魅力発信部を設置して、東北の文化を紹介しようと思ったんです。

——言われてみれば、文化や観光については二の次になってしまいますよね。具体的にどのような発信をされたのですか?

 愛媛にいる東北出身の方に参加してもらって、郷土料理教室や方言クイズなどを開催しました。団体のメンバーだけでなく、一般の方も集まって、充実したイベントになりました。

防災教室の様子

——言いたいことが言えなかった高校時代と比べると、随分成長された印象を受けます。大学生になられて団体をゼロから設立し運営されましたが、この経験からご自身で「成長したな」と感じられる点はありますか?

 そうですね。人をまとめ上げる能力がついたことでしょうか。団体を立ち上げる前は、自分にリーダーは務まるのか、人はついてきてくれるのかという不安はありました。でも、自分で企画し、「実行するのに必要なのはこれだ」「この人たちに協力してもらったらどうだろう」というふうに、考えながら行動して経験を重ねるたびに、人をまとめる力がついていったように思います。

1-3 ③日本一周を実行(社会人)

——日本一周は、大学卒業後会社員になってからですね。何か心境の変化があったのですか?

 卒業してからと言うか、遡るとやっぱり高校時代に戻るんです。いつも疑問に思っていたのが、大人が言う「愛媛はいいところだよ」というセリフ。「愛媛のみかんは美味しいよ」と言っても、なぜそうなのか理由を知らないんですよ。例えば、県外から来た人は、自分の地元と愛媛を比べて「こうだよね」っていうのが分かりますけど、愛媛から出たことがない人は分からない。
 「客観的に愛媛を見てみたい」という気持ちがずっとあって、社会人になった時に、それが日本一周というアイデアになり、働いてお金を貯めて計画を立ててというふうに、どんどん具体化していったんですね。そして25歳の時に退職して、日本一周の旅に出ました。

——なるほど。どうやって日本をまわるかご自身で計画を立て、さらに「愛媛県民に会うまで次の県に移動しない」というマイルールまで設定されたんですよね。

はい。何かミッションがあった方がいいかなと思った時に、ぽんと出てきたんです。ちょっと話が変わりますけど、この前日本一周当時に知り合った人を訪ねて、福井県に行ったんです。普通に挨拶しても「誰?」って感じだったのに、「愛媛県民を探していた人」と言ったら「ああ、思い出した!」って(笑)。

——日本一周が終わってからも交流があるってすてきですね。1年間愛媛を離れ、違う地域に訪れることによって、客観的に愛媛を見ることはできたのではないでしょうか。

 そうですね。その土地の文化や食べ物、人などに会うと「ここと比べて愛媛はこうだ」というのが分かりました。あと、僕は他県で暮らす愛媛の人達は、愛媛が嫌で出ていったのかと思っていたんです。「田舎が嫌で出た」という都会暮らしの人もいましたが、だいたいは仕事や進学などで地元を離れただけという人でした。今まで「こうだ」と思っていたことが、外に出てみて実はそうでないことに気づいたのは、大きな収穫でしたね。


ヒッチハイクで乗せてくれた方と

——いろいろなことが分かったのですね。日本一周の中で一番印象に残っているエピソードは何でしょうか?

広島県でヒッチハイクした時のことです。60代くらいの男性が車に乗せてくれたのですが、僕と同じくらいの時に、自転車で日本縦断を計画したことがあったとおっしゃいました。けれども、有休を取ろうとすると上司から「旅行なんて退職してから行くものだ」と言われて、断念したそうなんです。「それを今でも後悔している」と、話してくれました。それを聞いた時、「自分のやっていることは後悔しないことなんだ。間違っていないんだ」ということを確信しました。

2 29歳の僕はちょうど「楽しいこと」から「最も楽しいこと」を絞り込んでいるプロセスにいる


イベント作り方講座

——現在は、何をされていらっしゃいますか?

 今は、個人事業主としてイベントプランナーの仕事をしています。その他に、コワーキングスペースのスタッフ、2つの市で防災関連業務、高校のICT支援員もかけ持ちでやっています。

——いろいろされているのですね!

 はい。幅広く仕事をしているため、お客さんや知人に「結局何をしているの?」「何でも屋さん」と言われることが多いんですよ。でも、僕の中ではこれまでの経験の延長線上でやってきているので、バラバラではないんです。

——ぱっと聞いただけだと、やっていることがバラバラだと思うかもしれませんね。けれども、宮土さんの過去を知ると「ああ、つながっているんだな」ということが分かります。

 はい。僕の中では「自分がやりたいことの範囲」なんです。

——その「自分がやりたいことの範囲」についてもう少し詳しくお聞きしたいです。やりたいと決める基準というか、宮土さんの行動を決定づける原動力は何なのでしょうか?

 やっぱり「楽しい」という気持ちですね。団体を立ち上げたのも、日本一周をしたのも、「これをやったら楽しいだろうな」というのが心の中にあって、それが原動力になったと思います。
 で、行動してみてやっぱり楽しかった。今やっている仕事も、やっぱり「楽しい」気持ちがあるからなんです。いろいろと手を出しているように見えるかもしれませんが、今はいろいろな楽しい経験をして、その中から本当にやってみたいことが見つかるんじゃないかと思っています。

3 30歳から挑戦してみたいことはイベントプランナー


——30歳を目前に、何か心境の変化はありますか?

29歳までは、たくさんの「楽しい」を幅広く経験してきました。そして、30歳を目の前にして、自分が最もやりたい方向性が少しずつ見えてきました。

——それは何でしょうか?

イベントプランナーの仕事ですね。ゼロからイベントを企画することと、人を集めて何かをすることが好きで、やりがいを感じています。

——これまでのお話を伺っていて、宮土さんにぴったりなお仕事だと思います。

ありがとうございます。自分も参加した人も楽しめるような、エンタメ要素満載のイベントを企画したいですね。僕は愛媛の宇和島出身なんですけど、そこは鯛の養殖が盛んなんです。コロナの時に、養殖していた鯛が出荷されずに残ってしまい、さらに地元の飲食店も打撃を受けました。
 この状況をどうにかしたいという話になって、僕が企画したのは「鯛弁当コンテスト」 。地元の飲食店が鯛を使ったお弁当を作って、一般の人に投票してもらうというイベントです。
 実際に鯛を使ったお弁当を出品してくださるお店が出てきて、さらにそれを食べた人たちからの投票も集まって、順位も決定しました。


鯛弁当コンテストのロゴ

——素敵なイベントですね。出品する人も、投票する人もみんなが楽しめるような。

 養殖された鯛はほとんど県外に出てしまうので、地元の人は食べる機会があまりないんですよ。イベントをやることによって、宇和島の人が鯛の魅力を再確認して、さらに鯛の消費に貢献できたのではないかなと思います。

——宮土さんが企画するものは、自分が楽しめるのもそうですし、相手のためにもなることですよね。とてもすてきなことだと思います。

 そうおっしゃっていただけると、うれしいです。自分の気持ちを軸に動いたことが、結果的に周りの人や愛媛にとって良い結果をもたらすというのが、次のイベントを考えるエネルギーになります。

——ありがとうございます。最後に、30歳の抱負をお聞かせくださいますか?

 今は、イベントプランナーの仕事をメインにしていきたい気持ちが強いので、30歳になってからは、そちらに力を入れていきたいです。愛媛を理解してその良さを発信しながら、将来的には他県との情報交換や文化交流につながるようなイベントが企画できたら、もっと楽しみが広がるんじゃないかと考えています。

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