見出し画像

「正面」から/を問うセ(ルフ)リフ(クレション)──リーディング・パフォーマンス 中村大地/松原俊太郎『正面に気をつけろ』評

山﨑健太(演劇批評)
_____________________

 「正面に気をつけろ」。参加者自らが戯曲を読むという形式をとるリーディング・パフォーマンスにおいて、この言葉は単に突きつけられる警告としてでなく、それを発する自らの立場をも問い直すものとして響くことになる。

 演出家の中村大地によって参加者に与えられた指示は以下の通り。

○人物
・『正面に気をつけろ』を、4人の「もう死んだ者たち」がパーティーとなって、正面からやってくるさまざまな者と対峙するゲームだ、と想像する。
・参加者(今まさにこれを手にしているみなさん)は死んだ者たちである4人の登場人物、夫、FTZR、妻、娘の中から一人を選択し、このゲームのプレイヤーとなる。
・プレイヤーは、選んだ登場人物の台詞を声に出す。このとき必ず、誰か聞き手(≒観客や、他の登場人物)に向かって話す。もし、一人で声に出すときも、誰かに向かって語るつもりで声に出す。
○設定
・このゲームは、目の前にひたすら真っ直ぐ続く一本の道が舞台だ。たとえば正面からどんどん敵がやってくるシューティングゲームや、レーシングゲーム。あるいは歩く道中で敵と遭遇し戦う、ドラクエのようなRPGは、想像の手助けになるかもしれない。
・スクロールする道の正面から様々、生きている者たちがやってくる。門番、書記、群衆人間、作業員、物見遊山する女たち、ユニフォーム、などなど。

 ほかにもいくつかの指示や言葉が与えられているが、ひとまず重要なのはこのリーディング・パフォーマンスがゲームになぞらえられているということであり、参加者=プレイヤーは「もう死んだ者たち」としてそのゲームに参加することになるという点だろう。私はこのリーディング・パフォーマンスを数人の知人とともにオンラインで実施したので、それが画面上で/画面を通して行なわれたという点においてもシチュエーションはよりゲームに近いものになっていた。
 さて、ゲームとはいうものの、これは一体どのような意味においてゲームであり得るのだろうか。「正面からやってくるさまざまな者と対峙するゲーム」。「スクロールする道の正面から様々、生きている者たちがやってくる」。なるほど。プレイヤーは「もう死んだ者たち」となって「生きている者たち」と「対峙する」。だがそこにクリア条件は示されていない。与えられた指示の最後には次の二文があるのみだ。「このゲームには武器も魔法の呪文もない。まず、声を発することだ」。もう一文は戯曲からの引用。「生きている者たちと正面から対峙して殴り合わないためには、尽きせぬことばと妥協が必要だ」
 戯曲を読むことと画面がスクロールしていく形式のゲームをプレイすることには似たところがある。実際、リーディングに臨む私は紙に印刷した台本とpdfの台本とを併用していて、つまり、スクロールすることでやってくる言葉と対峙する。戯曲を読み上げるとき、過去からの言葉は私の声を通して現在のものとなる。正面からやってきたはずの言葉は反転し再び画面へと向かう。読みはじめ、最後まで辿り着いたところでそのゲームは終わる。戯曲を読むのを途中でやめてしまうという手もないではないが、ともあれ、声を出すことによってこのゲームは続く。ゲームを終わらせるための条件ではなく、それがゲームを続けるための条件だ。
 地点による『正面に気をつけろ』の上演では、俳優は壁を背に追い詰められたような形で「正面に気をつけろ」という言葉を発していた。その正面には客席があり観客がいる。ならば警戒すべきは観客だろうか。だが、そもそもこの言葉は誰に向けられたものか。言葉が舞台から客席へと向かうかぎりにおいてそれは観客に対して発せられた警告であり、警戒すべきは観客の正面にいる、その言葉を放った者ら自身だということになる。しかし自ら警告を発する者が危険なわけがないという思い込みは現に正面にいる者らをその警戒の対象から外してしまう。これがリーディング・パフォーマンスとなればそれはなおさらで、特に主催者であり参加するメンバーのほぼ全員と面識のある私が他の参加者に対して警戒や猜疑の目を向けることはない。もちろんそれが「正常」だろう。だが、現にそこにある分断を見ないことで成立する「正常」にはそれこそ「気をつけ」なければならない。
 オンライン会議用のアプリを使ってのリーディング・パフォーマンスでは参加者それぞれの置かれている状況の違いがはっきりと可視化される。視覚的にもそれぞれに違う部屋にいることが(当たり前のことだが)明らかだし、その背後にはそれぞれの生活の気配もある。公演であればその時間に合わせて会場に行くしかないが、今回のリーディング・パフォーマンスは私が知人を集めて個人的に開催する形になったため、スケジュール調整の段階から参加者個々人の事情が入り込んでくる。たった6人の参加者でも全員が都合がいい日時というのはなかなか難しく、何人かにはやや負担をかけることになってしまった。「私たち」はそのようなばらばらの「私」の集まりとしてしかない。
 中村は上演台本のレベルにおいても「役」を通してプレイヤーたちに潜在する「異なり」を可視化しようとする。実は、中村の「設定」において「生きている者たち」として羅列された者のうち「物見遊山する女たち」は戯曲において実体のある(台詞のある)人物として登場するわけではない。ト書きによれば彼女たちは男たちが行進する道端に立っている。だがそこになぜか妻と娘も紛れ込んでいるようなのだ。あるいは「物見遊山する女たち」がそのまま妻や娘を指していると読むこともできる。いずれにせよ、「もう死んでいる者たち」である彼女たちが正面から「生きている者たち」として(も?)やってくるのはなぜかという疑問は生じることになるだろう。上演台本には中村の手によって書き加えられた「作業員たちは女の姿をしてあらわれる」「男たち(夫、FTZRも含む)は、略奪者になる」というト書きもある。パーティーの仲間として横に並び同じ方向を向いていたはずの妻と娘は/夫とFTZRは、気づけば「気をつけ」るべき正面からやってくる。そこで示される「作業員」と「略奪者」という立場の違いにもまた不均衡は刻まれている。
 「尋問」と題された場面では「支配する種類」と「支配される種類」の2種類の人間とその関係についての問答が繰り広げられる。英霊や(津波で流されたと思しき)溺死者への言及があるこの戯曲において「2種類の人間」にはいくつもの意味を読み込むことが可能であり、無数の二項対立は解きがたく絡み合う。中村の上演台本はなかでも「男女」の二項対立に焦点をあてて構成されているように思えるが、重要なのはその二項対立がどのように顕れるかだろう。
 リーディング・パフォーマンスの最中、私は戯曲を読む自らの姿が、記者会見でプロンプターの原稿をただただ読み上げる安倍晋三内閣総理大臣の姿に似ていると思い至り落ち着かなくなった。戯曲の文字を目で追う私の視線は言葉を発する先には向いていない。難解な松原戯曲をその場で自らの言葉として発することも難しく、私は「誰かに向かって語る」ことに失敗する。
すでに正面にあるものに気をつけることはたやすく、ゆえにそれは形骸化しやすい。だからこそ改めて「正面に気をつけ」なければならないのだというのも一つの答えだ。だがそれ以上に重要なのは「正面」自体を問い直すことではないだろうか。それは「正面」からやってくる者たちと対峙し続ける、私が今プレイしているこの「ゲーム」自体の是非を問うことでもある。「お前」が向き合うべき「正面」はそこか。「生きている者たち」が向かう先は「もう死んだ者たち」がやってきた道だったではないか。この文章を打ち込む私の正面にはパソコンの画面があり、そこにはぼんやりと私の姿が反射している。

画像1

______________________
山﨑健太(やまざき・けんた)
批評家、ドラマトゥルク。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartscapeで舞台芸術を中心としたレビューを連載。演出家の橋本清とともにy/nとしても活動中。

イメージ写真(上):Taro Motofuji

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?