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人間は深い淵──リーディング・パフォーマンス 市原佐都子『蝶々夫人』評

森岡実穂(オペラ演出批評)
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 市原佐都子によるオリジナル部分と、プッチーニのオペラ《蝶々夫人》の台本抜粋を組み合わせた戯曲『蝶々夫人』を、観客数十人で読み合わせるという「上演」が、シアターコモンズの「リーディング・パフォーマンス」として企画された。時期は2月下旬から3月上旬、新型コロナウィルスの流行によって各所の演劇上演が次々中止されていった頃で、シアターコモンズでも万全の衛生的配慮のうえ上演されるものもあったが、この『蝶々夫人』も当初予定されていた、大人数が会場に集まる形での上演は中止になった。しかし主催者側から、「チケット購入者に戯曲データを送るので、有志で読み合わせをしてみてほしい」という提案があり、予定外の形で、各地でいくつもの「上演」がなされることになったのだった。
 私も友人の誘いでこの「読み合わせ会」を実施、相当はっきりと性的な表現もあり、不特定多数の前で読む羽目になっていたらなかなか厳しかっただろうというのが正直な感想だ。会合のサイズやメンバーによってずいぶん参加者の印象が違ってきそうだ。ただ自分が読むのでなければ、この戯曲は《蝶々夫人》アダプテーションとして大変面白いものだった。この作品に長くかかわってきた者の視点から、オペラ版テクストとの関係で本作を紹介してみたい。
 なお原則論になるが、こうした「引用」の多いテクストを作る時には翻訳者名を明記しておく必要があるだろう。作家に確認したところ、今回の原典は、とよしま洋訳(『イタリアオペラ対訳双書(19)蝶々夫人 〔第2改訂版〕』、アウラ・マーニャ/イタリアオペラ出版、2002年)によるとのこと。この点は今後も芸術公社ほか公演主催者の方でも留意し確認してほしいところだ。

「蝶々ちゃんはピンカートンといったい何語で話してるの?」

 市原は読み合わせ会用のインストラクション動画の中で、「オペラのテクストだけを読むよりも、私のテクストも交えながら読んだ方がより多角的にこの物語をとらえられるのではないか」と語っている。オペラ演出家たちは、しばしば現代の我々の社会に舞台を移した演出によってそうした「別アングル」を追求しているわけだが、彼女はまずそこから「音楽」を抜き、「テクスト」のみを新作テクストと並べて語り直すことで「演出」している。それでは「オペラ」作品の読み直しにはならないのでは、という意見もあろうけれど、本来この作品が内包するはずなのに普段は十分に可視化されない側面を掘り起こす効果は実際にあった。そのひとつが、「蝶々さんは(どのくらい)英語を喋れるのか」という視点である。「第6場:蝶々ちゃんおめでとう」は、「ピンカートン」と結婚する六本木の「外人ハンター」である「蝶々ちゃん」の友人代表スピーチという形のモノローグだ。

でももう外人と何人もやってるのに全然英語喋れない。そりゃそうだ、だってやるのに英語いらないもん。私いまだに子供のようなことしか喋れなくて。だんだんともう言葉に合わせて脳も子供になっている気がする。(中略)蝶々ちゃんはピンカートンといったい何語で話してるの?まじ気になる。(市原佐都子『蝶々夫人』より)

 小説・演劇からオペラ化されるにあたって、東西世界の対立から人間ドラマに焦点が移され、蝶々さんは悲劇のヒロインとして理想化されたため、彼女はその役どころにふさわしく、しっかりした言葉でシャープレスやピンカートンと会話をするようになったとされている。だが現実的な状況を考えたなら、長崎で武士の娘として育ち、のちに芸者となった女性がきれいな英語を学べる機会はどれだけありえただろうか。オペラ版でもさすがに読み書きはできない設定となっているし、直接の原作にあたるD・ベラスコの演劇版では子どものような英語をしゃべる蝶々さんの姿が認められる。市原版では、そうした可能性によって現代を照射するかのように、「外人ハンター」の女子たちが、語学能力が低いゆえに非常にのっぴきならぬ場面でも十全な意思疎通自体を諦めてしまう姿、弱い立場の人間が言葉によって更に弱体化させられる状況が何度も描かれている。確かに、本来この物語には言語的ヘゲモニーの問題が存在しているはずなのだ。
 彼女だけでなく、シャープレスは、ゴローは、どれだけ日本語が/英語(上演上はイタリア語)が喋れて、誰が何語を喋らずに済んでいるのだろうか。演出としても、ゴローがケートの通訳を務めているのを一度観たくらいで、本格的にそこに焦点を当てたものは観た覚えがない。一方、多田淳之介『가모메 カルメギ』などが好例だろうが、現在あちこちで見る多文化設定の多言語演劇においては、この問題はむしろ中心的トピックになっている。《蝶々夫人》でも、そろそろそこにもう一歩踏み込んだ解釈を観てみたい。そして、現代演劇として《蝶々夫人》を産み直すならば、ここに注目するのはまったく妥当な選択であろう。

「ということで私は粘膜だけが心配」

 前項のモノローグの語り手である「友人」は、自ら「Gaijin」男性たちを狩りに向かっていく六本木「外人ハンター」。オリジナル部分での「蝶々ちゃん」は人々の言葉の中にしかいない存在であり、この「友人」こそが、市原がこの作品を描くきっかけになったという六本木女子を具現化する人物である。
 このスピーチにおいて、「披露宴」という、祝いの体裁を取って家父長制共同体の規範が確認される最も因習的な場にありながら、彼女はなにものにも縛られず、自分たちの「小ささ」への不安も、傷つく心も身体も、思うままにさらけ出していくように見える。そのアナーキーな語りは、もはやこの権威的な場への意図的な挑戦と言ってもいいかもしれない。さらに言えば、オペラ版からの引用部分で、結婚式に来てわざわざ「私はあの男を断った」と言い放つ従妹の台詞が残されていることを考えると、「友人」がこの式に水を差そうと挑発しているという解釈可能性すらゼロではない。この場面は、「披露宴」という設定だけ書いて、彼女の発言に反応する外部を明示していないので、誰を追加で登場させるかも含め、多様な演出可能性がありそうだ。
 ところで、なぜ蝶々さん/蝶々ちゃんたちは「Gaijinと寝たい・結婚したい」と思うのだろう。オペラ版の多くの演出では、帝に切腹を命じられた逆賊の娘、という社会的状況が重視される。生地で疎まれた蝶々さんは、結婚により「アメリカ人・強国の人になる」ことに人生の一発逆転を賭けた。結局その望みは叶わず、日本にも米国にも属することができない彼女を「デラシネ」と評する論者もいる。蝶々さんの持ちうるいろいろな側面の中で、市原の描く六本木女子たちが最も色濃く共有しているのは、多少文脈は違えど、この根無し草感、宙吊り感なのではないだろうか。だからこそ彼女たちは、粘膜の痛みでその瞬間だけのピン留めを繰り返しているのではないか。
 20世紀初頭の、女性が理想化されたオペラでは、蝶々さんが持っているはずの、性的欲望を持つ肉体は隠されねばならなかった。21世紀の演劇版では、確かに蝶々ちゃんたちに肉体は取り戻されたのかもしれないが、彼女たちのセックスに関する発言には痛みに関する言及ばかりが目立ち、性を肯定的に捕えているというよりはむしろ自傷行為の匂いを感じる。国/父・夫に疑問なく従属して自分の居場所を認識することはできず、そうかと言って、どこに行って男の身体で自分の身体をピン留めしてみてもここが自分の場所と確信が持てるわけでもない。対「家父長制共同体」のアナーキーさのみならず、市原がこの《蝶々夫人》の奥に見つけてきた、文字通りひりひりするような「存在の不安」との対峙の構図はとても強烈だ。

「私は私の動物を知ってしまったのです」

 市原は、《蝶々夫人》のルーツ作品と言えるロティの小説『お菊さん』で、男が出ていったらすぐ金を勘定していた主人公の姿に、メロドラマ的に美化されたプッチーニの蝶々さんよりリアリティを感じると指摘し、第2場登場の「ザ・イエローバタフライズ」の一人にも「だから私は(男との関係によって)お金と名誉が欲しい」と言わせている。そもそもオペラ版でも、ミラノでの初演版の帝国主義的リアリティはより露骨で、日本人の使用人をバカにするピンカートンのセリフや、蝶々さんに手切れ金を渡そうとするシャープレスの行為など、当時の米国人/欧州人の差別感覚をより明確に描いていた。同時に蝶々さんもまた、よりはっきりとした意思を持った女性であり、彼女自身が「アメリカ人」に持っていた偏見を示す台詞もあった。

「だってアメリカ人なんて!野蛮人で!くまんばちで!なんて私言ってましたの。ごめんなさいね ── 私知らなかったのですもの……」
(永竹由幸訳、新潮オペラCDブック『プッチーニ 蝶々夫人』1996年、新潮社)

  その後の改訂を経て、そうした日本人とアメリカ人が互いに「人間」扱いをしていないと考えられるような部分はいずれも削られていたのだが、市原の『蝶々夫人』のオリジナルテクストでは、まるで先祖返りのように、互いを「ステレオタイプ」に閉じ込めひとりの個人として「人間」扱いしていない日本人とアメリカ人の姿が描かれているのに驚く。
 第4場「Confession by Gaijin」はあるアメリカ人男性の懺悔の場。彼は六本木の女性たちにとって自分がひとりの人間としてではなく「Gaijin」という「型(タイプ)」として認知されているのに愕然とするが、その状況に思いがけずはまり込んで暴走してしまい、「同じ人間」どうしならしないような性暴力そのもののセックスをしてしまう。しかも事後の懺悔においてすら、自分が相手を同じ人間と思っていなかったことを認め(「男女平等という言葉は、まず同じ人間であると相手を認識しないと成り立たないのです。」)、最終的に「私は私の動物を知ってしまったのです」と告白している。それは彼自身の自己認識もまた「人間」ではなくなってしまったからこそなし得た蛮行だった。
 人間は、互いを人間と認め合い縛りあうことでかろうじて「人間」としての形を保っているのであり、その姿は簡単にぐすぐすにほどけてしまう。そうした、現代の世界における「人間らしい」人間存在そのもののもろさを、市原の『蝶々夫人』は引き出してみせている。そして、同じような「人を人と見ない」関係は、当然「異国人どうし」ではない組み合わせにおいても言える。その辺のごく「普通」の家庭にもあり得ることであり、Gaijinの示唆した闇は深い。
 前項の六本木女子のケースと同様、市原のテクストを読んでいると、《蝶々夫人》のはずなのに、ベルク《ヴォツェック》の台詞を思い出す。「人間は深い淵だ、その底をのぞくと、目が回る」。この『蝶々夫人』の最終的な上演がどういう世界に到達するのか、今からとても楽しみだ。

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森岡実穂(もりおか・みほ)
中央大学経済学部准教授。東京大学大学院人文社会研究科欧米系文化研究専攻英語英米文学専門分野博士課程単位取得退学。専門分野は表象文化論(オペラ演出批評)、ジェンダー批評、十九世紀イギリス小説。著書に『オペラハウスから世界を見る』(2013年)、論文に、「プッチーニ《蝶々夫人》における「日本」の政治的表象とジェンダー」(長野ひろ子他編『日本近代国家の成立とジェンダー』所収、柏書房、2003)、「シュテファン・ヘアハイム演出《蝶々夫人》におけるミュージアムの意味」(池田忍・小林緑編『ジェンダー史叢書 第四巻 視覚表象と音楽』、明石書店、2010年)、「細川俊夫《班女》における実子の「絵」の役割――フロレンティン・クレッパー演出および岩田達宗演出を通して」(『芸術のリノベーション』2020年に所収)など。季刊『中央評論』(中央大学出版部)で「今日も劇場へ?」を連載中。

撮影:佐藤駿

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