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【シアターコモンズ'24】笑いと恐怖の転回——『弱法師』に見る市原作品の「過激さ」について

關 智子(早稲田大学講師)
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 市原佐都子の作品はこれまで、その過激さが取り上げられることが多かったように思う。確かに、セクシャルなシーンを直接的に描き、性器の名前を連呼し、プレジャートイを持ってきてあまつさえ振り回すような作品群は過激以外のなにものでもない。ではその「過激さ」はどのような性質のもので、なぜ作品に取り上げられているのか。
 『弱法師』はドイツの世界演劇祭(Theater der Welt, 2023)にて初演され話題となった。俊徳丸伝説の現代への翻案であるが、ストーリーはかろうじて原型を留めている程度である。長らく子どもがいなかった夫婦に可愛らしい坊やが生まれ、その子は他人からの寵愛を集めるようになる。母が死に、父が連れてきた別の女が坊やに欲情し虐待するようになるが、彼女はそのことを否定し息子を滅多刺しにした挙句捨ててしまう。捨てられた坊やはマッサージ風俗店で働いていたが、そこを父が訪れ、知らずに交わる。父は自身の息子の春を買ったことを知って自殺し、坊やは転倒し体がバラバラになる。「体がバラバラになる」とは文字通りの意味である、というのも本作は文楽に着想を得た人形劇であり、ほぼ等身大の人形を人間が、一対一で動かしており、その人形がバラバラになるからである。登場人物である人形の台詞と物語は原サチコが担い、琵琶奏者(西原鶴真)がそれに音楽を付けていた。
 以上は意図的に市原作品の決定的な特徴を避けた概説である。最大の特徴は、人形が人形であることを自覚している点にある。それぞれの登場人物たちはお互いが人形であると認識しており、これによっておかしなことが起こる。つまり、人形だとわかっているのに性行為を行うし、子どもができるし、自殺しようとする。市原は作品創作について、能の『弱法師』の最後のエピソード[1]、すなわち俊徳丸の目が見えるようになったと思い浮かれるが実は見えていなかった、という物語に惹かれ、「実は見えないとわかっているが見えていることにする」という解釈を行なったと語っている。この点が「実際にはそうではないと分かっているがそういうことにする」という演劇的約束事が前景化された本作の形式に生かされていると考えられる。つまり、人形たちはお互いに人形であるとわかっているが人間がする行為を行うし、観客も人形であり人間が動かしているとわかっているが登場人物として自律的に行動しているものとして見るのである。
 そしてこの特徴が最も活きるのは、登場人物たちが、本作のテーマとなる人形にはできない行為すなわち性行為と生殖、そして死に挑戦する時である。この点にも、市原らしいキッチュな演出が見られた。母はラブドールであり、その「脱着式オナホール」を「まんこちゃん」と呼ぶ。その「まんこちゃん」に(なぜか)魂が宿ったので魂を移した人形が「坊や」である。捨てられた坊やが行き着くのはギラギラしい照明のマッサージ風俗店であり、そこの店主と店員も皆人形だが、腕や頭などのみならずオナホールやディルドなど好きなパーツを3つも4つも着けた彼らの出で立ちは異形である。その彼らが、原の飛び抜けたテンションの「M・A・S・S・A・G・Eマッサージ!」という歌に合わせて人形の体をブンブン振り回す(振り回される)様はいかにも過剰である。そこで父に売春マッサージを施した後、坊やは父の胸を切り裂き「心臓」を取り出すが、この時点でほとんどスプラッター・ホラーの戯画だった。さらに、絶望した父は自殺を試みるが人形であるために当然死ぬことはできない。作品の終了後も舞台上にぶら下がっている交通誘導人形は、恐ろしいというよりも滑稽だった。このように『弱法師』では、人間が人前で(それが演技だったとしても)見せることがタブーとされるような行為すなわち性行為や自殺を、人形を使い表現していた。

©シアターコモンズ'24 / photo: Shun Sato

 当初筆者は、市原が人形劇を作ると聞いてさぞや過激なものができるに違いないと思っていた。というのも、これらの行為が人形によって行われることで、人間にはできないレベルまで表現できてしまうからである。実際に本作でも、坊やの最後は転倒し体がバラバラになって頭だけがテーブルの上に置かれる、という、人間にはおよそできない展開になっていた。だが、実際に作品を見て感じたのは過激さよりも滑稽さだった。
 突発的であり過剰な暴力性は、もし登場人物たちに少しでも感情移入できれば少しは同情したり戦慄したりしたかもしれないが、微塵もその要素はなく、むしろ突然の展開に吹き出してしまうこともあった。これは全体が「人形遊び」であることを強調されていたことに起因する。動かしている人間の存在が隠されることなく人形の背後に常にあり、原による台詞もわざとらしさと棒読み感が意図的に含まれていた。そのため、観客は「遊び」で行われるその過剰さに吹き出したり苦笑したりせざるを得ないのである。この点にも、前述した市原の制作意図が垣間見える。「見えないものを見えることにする」とはすなわち「人形だとわかっているが人形ではないということにする」であり、「人形ではないことにするが、人形だとわかっている」となる。この「人形だとわかっている」という意識が、登場人物への感情移入を大きく妨げており、そして彼らに降りかかる不幸を恐れるたり憐れんだりするどころか笑うしかなくしていたのだ。
 したがって、本作では表現が過激になればなるほど、つまり性的表現や死への言及が増えれば増えるほど、それが人形によるものであるという点が強く意識され、結果として笑いを生む構造になっていた。この過激さによる笑いが、(恐らく他の作品にもある程度共通する)市原の特徴だろう[2]。そしてこの笑いは、作品の最後で大きく恐怖へと転回する。最後に頭だけになった坊やはテーブルの上に乗せられるのだが、幕切れ直前に彼は原の声を借りることなく「ハロー、生きてるよ!」と言った後にけたたましく笑う。生きていないと思っていたはずの人形が生きていたという、人形に対する人間の根源的な恐怖の具現化以外のなにものでもない結末である。全編を通して決定的な恐怖はほとんどこのシーンだが、ではなぜこれが入っているかというと、この結末は全体を貫く前提を覆すからである。すなわち、絶対的な客体であった人形を人間が動かしていたのではなく、人形が動くために人間が必要だったということになるのである。
 これと繋がるようなシーンが作中には2つある。1つは1部と2部の間で幕が降りている前で原が歌い踊り狂うシーン、もう1つは人形と共に人間たちが踊り狂うシーンである。いずれも誰のセリフか明白でない言葉が発され琵琶が掻き鳴らされる中で、まるで人形に対する人間の反乱であるような、あるいは人間に対する人形の反乱であるような狂騒ぶりである。特に、原の作中における存在感の強さが半端ではない。戦闘系プリンセスアニメのキャラクターを戯画化したかのような原の衣装とメイクは、その謳いにあるテンションの落差の激しさを一層増している。義太夫節的に低く朗々と謳っているかと思えば、次の瞬間には登場人物のけたたましい笑い声に変わる。それが、ぬいぐるみ帽子を被った西原の美しい琵琶に乗せられて流れてくるのだから、観客の情緒とテンションはぐちゃぐちゃにされる。本作の最大の「やばい」存在はこの二人だったと言っても過言ではない。ドイツでの初演時では原がドイツ語で行っていたというのだから、歪さはより一層増していただろう。その原が、人形から離れて歌い踊り狂う様は、見た目が人形のようにキッチュであるために、観客は本作における人形と人間の関係性がよくわからなくなるのである。
 人形の絶対的客体性は俊徳丸の存在のあり方と一致する。彼はその美しさから常に欲望の対象として認識されており、そのために伝説に描かれるような運命を辿っているのである。しかし本作では、上述したように人形は絶対的客体性から主体へと転回する。坊やも同様である。彼は欲望の対象であったが、自ら「エリーちゃん」という百均の人形を持つし、その人形の手足をもぐし、マッサージ風俗店で自ら父の胸を切り裂き「心臓」を欲しがる。「心臓」を手にしたことで彼は「汗をかいている」「温度を感じる」すなわち「生きている」と思うのだが、実際にはそれが錯覚であったことが分かる(俊徳丸伝説にある、目が見える錯覚のエピソードのヴァリエーションである)。しかしすでに述べたように最後に「生きてるよ!」ということもあり、坊やは主客の狭間にいる存在となっているのである。
 以上のことから、『弱法師』における過激さは、笑いへの転換、そこから恐怖への転換を経て、主客の逆転を示すために用いられていたと言える。そしてこの主客の逆転という点において、筆者は市原作品を見るたびに当惑することがある。それは、「笑っているのか笑われているのか」という当惑である。本作もそうだが、市原作品は過激である他方で驚くほど攻撃性を感じない。他に「過激」と評される作品の多くが観客あるいは観客に代表される社会に対して攻撃的であるのに比して、それを感じられないのもまた市原作品の特徴であろうが、他方で得体の知れない意地の悪さを感じるのも事実である。それは、市原作品において提示される過激さを笑い、称賛する人たちに向けられているように思う。まるで、下ネタのジョークを笑う人たちを心で嘲笑っているかのようである。
 そしてまさにこの点が、現代日本演劇における芸術家の態度として評価できるのだ。というのも、市原を含む「若手」と呼ばれる「女性」の芸術家は、その表現が「過激である」として評価されることが実は多い。しかしそれは90年代以前に若手女性の芸術家が「過激である」と非難されたことの裏返しでしかない[3]。 現代においてもはや「若手」や「女性」を「過激である」というだけの評価で称賛も非難もすることは許されない。市原作品には、「過激さ」を喜ぶ観客を冷めた目線が感じられる。それは本作において示された主客の転回にも現れている。私たちは市原作品の突き抜けた表現を笑い、称賛するが、同時に私たちが笑われているのである。
 「ハロー、生きてるよ!」と言った坊やの頭部は、観客に冷や水を浴びせた。その時感じられたのは、人形に対する根源的な恐怖だけではない。どういう目線が向けられており、どう評価され得るかはわかっているという、正に主客の転換を、作品自ら観客に投げかけたのである。クレバーな市原らしい、痛烈な結末だったと評価できるだろう。

©シアターコモンズ'24 / photo: Shun Sato

[1] 俊徳丸伝説を扱った物語には複数のバリエーションがあり、ここで示した謡曲『弱法師』もその内の一つである。筆者の専門外であるために全てを表記することはできないが、そのバリエーションの中には義母と俊徳丸の近親相姦的関係を中心にしたものや父と俊徳丸との確執に焦点を当てたものが含まれる。

[2] 人形を使った過激な作品は他にも複数あるが、それらと比較するとより明確になる。例えばジゼル・ヴィエンヌはヨーロッパにおける現代人形劇の代表的存在であり、人間にかなり近い造形の人形を用いる。彼女の作品の多くは暴力的要素を含んで暗く重いテーマを描き、人形であるからこそできる行為によって、より一層観客は戦慄するような傾向がある。あるいは、ミュージカル『Avenue Q』は人間と人形が舞台上で「共演」する作品であり、アイロニカルなコメディであるため笑いも多く含むが、セクシャルなジョークはあっても性的に過激な表現はほとんどない。使われる人形も『セサミ・ストリート』的なぬいぐるみであるために人間とはあまり近くなく、むしろ、人間と人形(に代替される別の種族)の共存をテーマとしているため、人形だからこそできる過激な表現は本作では意図的に抑えられていると言えるだろう。この他にも人形劇は多くあるため、ひょっとしたら市原と似たものが見つかるかもしれない。筆者は人形劇に明るくないためこの辺りにしておくが、いずれにせよ、『弱法師』においては人形ならではの過激な表現が笑いへ転換されていたことは明白である。

[3] 代表例として筆者が知るのはサラ・ケインである。彼女の公式のデビュー作である『爆破されて』はその描写の過激さが物議を醸し、批評には彼女の性別と年齢に言及するものが少なくなかった。2020年代に入ってからは少なくなったが、それでも依然としてこの傾向がなくなったとは言えないだろう。

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關 智子(せき・ともこ)
早稲田大学文学部講師。専攻は演劇学、戯曲理論。専門は90年代以降のイギリス演劇。単著に『逸脱と侵犯 サラ・ケインのドラマトゥルギー』(水声社、2023年)、共著に『紛争地域から生まれた演劇』(ひつじ書房、2019年)、『西洋演劇論アンソロジー』(月曜社、2019年)。翻訳戯曲にアリス・バーチ『アナトミー・オブ・ア・スーサイド』、ナシーム・スレイマンプール『白いウサギ、赤いウサギ』。

シアターコモンズ'24 Q/市原佐都子『弱法師』
https://theatercommons.tokyo/program/q_satoko_ichihara/
※公演は終了しました。


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