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【山縣亮太9秒95!!】②最年長9秒台を出すまでの山縣が歩んだ道(下)

2度の10秒00など、いつ出てもおかしくなかった9秒台
その後繰り返す故障を克服できたのは?

 山縣亮太(セイコー)が6月6日の布勢スプリント(鳥取市開催)で出した9秒95(+2.0)は、男子100mにおいて日本人4人目の9秒台だった。(上)ではリオ五輪で2度目の五輪日本人最高タイムを出すまでを紹介したが、リオ五輪後の山縣はまさに“山あり谷あり”の競技人生を送ってきた。TBSの取材に「(9秒台が)出ましたね。まだ運が残っていました」と漏らした山縣。運がなかった時期もあったが、運をつかみ取るまで山縣は努力をし続けた。

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●運がなかったリオ五輪後の2年間

 リオ五輪以後の山縣は、山あり谷ありの“山”の部分に入った。
 リオ五輪翌月の全日本実業団陸上は10秒03(+0.5)と、五輪準決勝で出した自己記録を更新。桐生が日本選手権やオリンピックで結果を出せていなかった時期でもあり、山縣が9秒台一番乗り候補筆頭と目されるようになっていた。
 だが17年の日本選手権前に右足首を痛め、小さな“谷”の期間に入った。日本選手権は6位と敗れ、そのレース後には4位の桐生が山縣に声をかけている。
「今は色々な選手が出てきて盛り上がっていますが、僕らで短距離の盛り上がりを作ってきたと思うんです。最初に僕らが頑張ったから今がある。だからこそ、また戻って来ようと山縣さんと約束しました」
 その言葉通り、桐生は9月の日本インカレで9秒98(+1.8)と、日本人初の9秒台を叩き出した。歴史の扉を開ける功労者となったのである。
 山縣と桐生の関係は、運命的なところがある。山縣も2週間後の全日本実業団陸上で10秒00(+0.2)と、前日本記録となった伊東浩司の10秒00に並んだのだ。だが僅か数cmというところで9秒台を逃してしまった。
 桐生が9秒98を出したとき、山縣は祝福のメッセージを送っている。桐生は「自分に同じことができたのか」と、自問したことをその後の取材で明かしているが、今回の9秒95の報に接した桐生は、自身のTwitterで「山縣さんおめでとうございます!!」と祝福した。
 山縣もTBSの取材に「うれしかったですね」と桐生への思いを明かした。
「すぐに引用リツイートしました。歳は下ですけど追いかけていた部分があった相手です。もちろん負けたら悔しいですし、負けたくないですけど、(9秒台への期待など)背負ってきた者同士、感じるものがあります」
 話を17年に戻すと、山縣は7月の実業団・学生対抗(オープン参加)から始まり、19年4月のアジア選手権決勝を欠場するまで、日本選手間では無敗を続けた。18年5月のゴールデングランプリはJ・ガトリン(米国)に、同8月のジャカルタ・アジア大会は蘇炳添(中国)とT・オグノデ(カタール)に敗れたが、アジア大会では自身2度目の10秒00(+0.8)を、同9月の全日本実業団陸上では10秒01(±0)をマークした。
 本当にいつ9秒台を出してもおかしくない状態で、仮に17年9月に出していれば25歳、18年8~9月に出していれば26歳だった。
 13~15年に悩まされた腰痛を克服しての9秒台となったわけで、高く評価されたことは間違いない。だが今回の9秒台よりも大きな“谷”が1つ少ないプロセスで出していたことになる。突出した最年長9秒台にはならなかった。

●ヒザの故障に「オレ、もう続けられないかもしれない」

 突出した最年長9秒台となったのは、19~20年の“谷”があったからだ。
 19年前半は背中の痛みが出て、日本選手権は直前に肺気胸となって欠場。11月には右足首靱帯の損傷もしていた。19年5月のゴールデングランプリを最後に20年8月のゴールデングランプリまで、1年3カ月間、山縣はレースに出場することができなかった。
 背中の痛みや肺気胸は、ウエイトトレーニングを進化させたつもりが、結果的に悪い方向に行ってしまったからだった。
「19年シーズン前の冬期練習は、重たいものをやるときに、(姿勢が)ぐっと前に入っちゃうというか、突き出してしまっていました。重量を追い求めるあまり、本来やらないといけない姿勢が崩れてしまっていたんです」
 ウエイトトレーニングのやり方と関係していた可能性があるが、走るフォームも18年の良かった頃の上体の起こし方を追い求めすぎ、19年はそれが早くなりすぎていた。20年以降は「より長く前傾していられるようにしたい」という考えで走ってきた。
 しかし昨年(20年)7月に右ヒザを痛めてしまう(右膝蓋腱炎)。少し良くなって8月のゴールデングランプリは出場したが、予選落ちしてしまい、9月に再度痛みが大きくなり10月の日本選手権は欠場せざるを得なかった。
 12月までは走りも筋トレもしないで、その間にトレーニング環境を変えていくこと、冬期をどう過ごすかを考えたが、この時期が一番辛かったという。
「(大腿などの)肉離れなら待てば治ると思うことができますが、ヒザは治っても、同じ動きをしていたらまたやって完治しない。オレ、もう続けられないかもしれない、と思ったりしました」
 多くの選手が引退に追い込まれるような状況に、山縣も陥っていた。

●初めてコーチを付けた効果も

 しかし、そこでも山縣はあきらめなかった。「動きの大改革が必要」と覚悟し、実行に移した。
「12月から走り始め、しばらくはスピードも上げず、量も少なめの練習を続けました。2月から環境もしっかり固まってきて、スピードや筋力を上げるトレーニングを行い始めました」
 20年の夏からPNF(固有受容性神経筋促通法)のリハビリとトレーニングを行い、筋肉の連動性を高めた。前寄りの重心の走りでもヒザへの負担がかからない筋肉の使い方を追求した。
 今年2月からは、それまで特定のコーチを付けなかった山縣が、慶大短距離ブロックコーチの高野大樹氏にコーチングを依頼した。高野氏は練習メニューから動きの面まで、山縣のやろうとしていることを理解し、山縣の方針に沿って自身の考えていることをアドバイスしている。
「ヒザに負担のかからない補強や動きづくりをアドバイスしてもらいました。動きを変えていかないとまたケガをしてしまう状況で、どう変えていくのか、メニューの引き出しが多い人なので、自分の課題を理解してメニューを提案してくれます。僕の(感覚を表現する)言葉を理解しようとしてくれるので、すごく助かっています」
 他にも多くの努力と工夫をして、「本当に9秒台出せるのかな、と思った時期もあった」が、布勢スプリントで一気に9秒95へ到達した。
 9秒台が出た今、山縣の足跡をさかのぼって紹介すると、確実に階段を上ってきたように受け取られてしまうかもしれない。だが山縣は何度も迷い、考えに考え抜き、行動に移すための決断をしてきた。サポートしてくれる人と意見が合わないこともなかったはずはなく、それは本当につらいことだっただろう。普通の選手だったら、19~20年の“谷”は乗りこえられなかった。
 以前の取材で山縣が次のように話していたことがあった。
「ケガをする度にどうしてなんだろう、と100 mという種目について考えます。トレーニング1つとってもそうですし、競技の見方そのものを変えなければいけないのかな、と考えることもありました。そういう経験を重ねるなかで、100 mは奥が深いといつも思います。そこがこの競技の難しさであり、魅力であるんだな、と」
 9秒台をあきらめかけたこともあったが、「濃い自己新までの道のりだった」と実感できるのは、9秒台を目指し試行錯誤し、努力する過程に充実感も感じられたからだ。
 山縣のことを求道者と見る人は多い。それがどんなに困難な道でも、何度も谷にさまよい落ちてもあきらめず、頑張り続けられた。山縣の強靱な精神力が、最年長9秒台選手を誕生させた。

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TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト

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