見出し画像

2021年3月7日OA「東日本大震災から10年・事故はなぜ起きた?」

画像1

東京電力福島第一原発の事故から10年。事故はなぜ起きたのでしょうか?こちらは事故全体の概要です。停止中の4号機以外、1号機から3号機で核燃料が溶け落ちるメルトダウンが発生。2号機は免れましたが、水素爆発も相次いで起きました。

まずは、連鎖事故の起点となった、1号機の状況から検証します。

・・・・・・・・・・

枝野幸男官房長官(当時)「住民の避難の指示をいたしました」

画像2

3月11日の夜9時すぎ、2号機が危機に陥っているとして、初めて国から出された住民への避難指示。

しかしこの時、実際は、2号機は順調に冷却が続き、1号機がすでにメルトダウンしていたのです。

画像3


危機に陥った原発を取り違えるという、東京電力と政府の失態は、なぜ起きたのでしょうか。

画像4

巨大津波が福島第一原発を襲い、すべての交流電源が喪失。

画像5

その中で、原子炉をどう冷却するかが、最大の課題でした。

最初に危機を迎えたのは1号機ですが、1号機には唯一、電源がなくても冷却を続けることができる装置「IC」と呼ばれる非常用復水器がありました。

画像6

ICは、核燃料がある炉心から発生する水蒸気を、タンクで冷やして水に戻し、それを再び炉心へ送り込む装置です。そのICが動いているのかどうか。

画像7

電源が落ちた暗闇の中央制御室では、それを知ることは困難でしたが、実は容易に判断する方法がありました。

画像8

50年以上前、ICの実作動試験を見た元原発技術者がいます。その様子を聞くと…。

元・原発技術者「最終的にはボーボーという(轟音)。激しく蒸気が噴き出していた。(建屋の)壁面は全然見えません。それぐらい蒸気量は多かった」

ICが起動すると、“ブタの鼻”と呼ばれる建屋の穴から、轟音と共に大量の水蒸気が噴き出し、建屋の上半分が見えなくなるほどだったと言います。

画像10

事故当時、東京電力の作業員が確認したのは「モヤモヤ」程度の蒸気。にもかかわらず、吉田所長ら幹部は「ICは動いている」と思い込んだのです。

元・原発技術者「バルブがちょっと漏れただけでも、モヤモヤは出ているから、実作動試験を見ている人間なら本当に動いているのか、判断はできる」

実は、ICを起動させたのは、1号機が稼働する1971年の前後に数回あっただけとされていて、長年、実際に動かす試験や訓練を行ってきませんでした。そのため、過酷事故の際に、重要な働きをするICについての知識が、不足していたのです。

東京電力や政府の誤った認識は、他にもありました。

画像9

原子炉を冷却できず、1号機のメルトダウンが始まったのは、11日午後7時半頃とみられています。

水が蒸発して、核燃料がむき出しになり、メルトダウンが始まります。圧力容器から蒸気が噴き出し、やがて燃料も下に落ちるメルトスルーに…。

画像11

メルトダウンに至っているかどうかは、核燃料を覆う水の高さ、水位で判断します。

画像14

しかし、当時の会見では…

原子力安全保安院・山田知穂課長(3月11日 22時頃)「1号機については今、水位は確認をされていて、問題のない水位にある」

実は、メルトダウンが発生した11日夜、実際の水は蒸発して減っていたのに、水位計は、逆に「水の高さが増した」と表示していたのです。

水位は、原子炉の横にある装置を利用して調べます。この中は、常に、基準面まで水で満たされていますが、メルトダウンの影響で水が蒸発してなくなり、誤表示が起きました。

画像12

その現象を、専門家に模型を用いて解説してもらいました。

奈良林直・東京工業大学特任教授「これが基準面器と呼ばれるもので、減った状態を模擬して、水面が下がっていったとする。すると、あたかも原子炉の水が増えたように表示されてしまう」

この水位計の誤表示の問題、実は、1979年に発生した、アメリカのスリーマイル島原発の事故でも起きていました。

画像14

しかし、その後の日本では水位計の誤表示問題にきちんと向き合ってきませんでした。

東京電力が1号機のメルトダウンに気づき、その対応をとり始めるのは深夜になってから。もっと早く気づいて対応していれば、その後の事故の進展が大きく変わったかもしれません。

そして3月12日午後3時36分、1号機が爆発。メルトダウンによって原子炉建屋内に溜まった水素が爆発したのです。さらに、この水素爆発が、世界に例のない過酷事故の連鎖を引き起こしていきました。

画像15


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1号機で、なぜIC=非常用復水器が稼働していると誤認されたのでしょうか。

画像16


福島第一原発で、ICを稼働させたのは、実は1971年の前後に数回だけとされます。東京電力は、動かさなかった理由について『もし伝熱管に漏えいがあった場合、大気中へ放射性物質が、放出されるリスクがあるため』としていますが、アメリカでは、数年に1度、定期的にICの稼働テストが行われています。一方、元原発技術者は『過酷事故を想定した訓練を行うこと自体が住民を不安にさせるため、行わなかったのではないか』と指摘しています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

福島県の汚染を広げた大気中に放出された放射性物質のうち、1号機からのものは全体の2割。さらに大きな放出があったのが、2号機と3号機で、あわせて8割に及んでいます。

画像17


水素爆発していない2号機からも、多くの放出があったのです。

事故検証で、東京電力の対応の問題点も見えてきました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3月12日、1号機建屋の水素爆発で、復旧中の電源ケーブルが損傷、ガレキも散乱し、その後のすべての作業に大きな支障が出ました。

画像18

1号機の次に危機を迎えたのは、3号機。津波に見舞われたものの、唯一バッテリーが生き残って、2つの冷却装置が稼働、原子炉を冷やしていました。

画像20

しかし、翌日にはこれらも停止。3号機のメルトダウンが始まりました。

冷却装置の停止後、消防車による注水が始まりますが、水は十分ではなく、13日の夜、メルトスルーに到ったとみられます。

画像19

一方の2号機。津波に見舞われる直前、バッテリー駆動の冷却装置が起動され、原子炉の冷却が順調に続き、14日午前には、消防車からの注水準備が整いました。

画像22

2号機は唯一、メルトダウンを防げる可能性がありましたが、その時・・・。

14日午前11時1分、3号機建屋が水素爆発。

東電テレビ会議(福島第一原発・吉田昌郎所長)「大変、大変です。3号機、爆発が今、起こりました」

画像21

3号機建屋の水素爆発で、消防車やホースなど2号機の注水ラインが損傷。運悪く冷却装置も限界に至って停止に…。夕方から注水できましたが、やはり水は不十分で、結局2号機もメルトダウンが進んでいったのです。

東京電力は、複数の過酷事故に同時に対応する事態を想定していませんでした。

さらに東京電力は、過酷事故に対して行った2つの重要な作業に問題がありました。

画像23

過酷事故に対するマニュアルがなかった東京電力。吉田所長らが思いついて始めたのが、消防車による炉心への注水でした。

しかし12日夜、1号機で注水する淡水がなくなり、海水を入れ始めたところ、官邸詰めの東電幹部からストップがかかります。

画像24

これに対し吉田所長は従ったように見せかけて海水注入を続け、当時、この判断は英断とされます。

しかし、原子炉への注水は、ほぼゼロだったのです。

実際には、注水ルートには10の抜け道、バイパスフローがあり、事故の5年後にまとめられた研究報告で、注水は炉心にほぼ届いていなかったとされたのです。

画像25

その後の2号機や3号機の消防注水でも、抜け道のため十分に水は炉心に届きませんでした。

後に公開された深夜のテレビ会議の映像にも…。

東電テレビ会議 福島第一原発・吉田昌郎所長「どっかでバイパスフローがある可能性が高いということですね」。東京電力・武藤栄副社長「バイパスフローってことは、どっか横抜けてってるってこと?」。吉田昌郎所長「そう、そう、そう、そう」 

画像26

抜け道の存在を疑いつつも、どこでどう漏れているのか判らなかったのです。

画像28

結局、注水ルートを変更する3月23日までの間、原子炉が十分水で冷やされることはなく、放射性物質の放出が続きました。

画像29

東京電力は、過酷事故への重要な作業の一つ、原子炉への注水を適切に行えていなかったのです。

画像29

画像30

内部に溜まったガスで格納容器が壊れるのを防ぐため、放射性物質を最小限にした上で、大気中に放出する作業、ベント。このベントにも、問題がありました。

画像31

例えば1号機。東京電力には電源がない中でベントを行うマニュアルがなく、運転員は暗闇で図面を広げて弁を開ける、困難な作業になりました。

画像32

東電テレビ会議 本店・早瀬佑一顧問「余計なこと考えるな。こっちで全部責任とるから」。本店「もう1弁あるからさぁ、そっちは開いているのかい?」。福島第一原発・吉田昌郎所長「もういろいろ聞かないでください。今開ける操作してますんで、ディスターブ(邪魔)しないでください」    

2号機では結局、最後までベントを行えませんでした。

画像33

格納容器の上部から漏れ出た水素が建屋の穴から外に出て、爆発はしませんでしたが、15日早朝から、大量の放射性物質が大気中に放出されました。

同じ頃、運転停止中の4号機建屋で水素爆発が発生。

画像34

事故後、これは、3号機のベントで水素が4号機側に逆流し、爆発したものと分かりました。

画像35

ところが、今年に入り、ベントの逆流は他にもあったとの報告が出されたのです。ベントの逆流は、意外なところでも起きていました。

「1号機および3号機のいずれにおいても、自号機への相当量のベントガスの逆流があったと判断する。」

今年(2021年)1月に公表された原子力規制委員会の報告書では、1号機も3号機もベントで、自らの建屋に水素を逆流させていたことが分かったのです。

画像36

1号機ではベントの1時間後に水素爆発(3月12日・午後3時36分)。3号機では2回のベントが行われた翌日(3月14日・午前11時01分)に水素爆発が起きたため、専門家は「逆流が水素爆発のきっかけとなった可能性がある」と指摘します。

東京電力は過酷事故へのもう一つの重要な作業、ベントも、適切に行えてはいなかったのです。    

11日から、懸命に陣頭指揮に当たってきた吉田所長は、20日の午前11時頃、両脇を抱えられながら本部を後にしました。

画像37

地震から8か月後、吉田所長は死を覚悟したと当時の心境を話しました。 

福島第一原発・吉田昌郎所長(当時)「最悪メルト(ダウン)が、どんどん進んでいき、コントロール不能になる状態を感じましたので、そういう時に、これで終わりかなと…」

画像38

画像39

現場の決死の作業にも係わらず、なぜ事故は深刻化したのか。

そのヒントに、1992年、原子力安全委員会がまとめた、ひとつの文書があります。

画像40

そこには、過酷事故は『現実に起こるとは考えられない』ほど発生の可能性が小さいとして、その対策は『自主的に整備』するよう求める、とだけ記されていました。

電力会社もそう考え、対応を真剣に検討しなかった“油断”が、福島第一原発事故の背後に潜んでいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

画像41

様々な失敗の原因は、何だったのでしょうか。原子力安全委員会は、スリーマイル島とチェルノブイリの事故を受け、1992年に過酷事故に対する方針を示していましたが、電力会社の自主的な取り組みを求める、にとどめていました。1979年には、スリーマイル島の事故で、1号機と同じ、水位計の誤表示があったにも関わらず、改善せず。チェルノブイリの事故後には、フィルター付きベントの必要性が明らかになり、ヨーロッパの国々では、義務化されましたが、日本では設置されませんでした。そして、原発事故ではありませんが、9.11同時多発テロを受けアメリカの原発では、テロに備えて、全ての電源喪失を想定した対策を義務づけましたが、日本では、この教訓が生かされることはありませんでした。

「想定の甘さ」と「準備不足」が、事故の背景にありました。

タイトル スタジオ編



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?