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年を取ると解像度は上がるが、視力が落ちる。

解像度って言葉、数年前から盛り上がって、もはや普通にみんなが使うんですけど、実際のところ、どうなんですかね。
解像度って言葉の解像度、低くないですか?

だいたいね、物事をしっかりと正確に捉えることができる、ってのは、解像度が高い状態ではないですよね。それ「焦点が合ってる」なんじゃないですかね。そうは思いませんか?いや、ほんとに。

多くの問題は、焦点があってないところにある、と思うのです。
ピントがズレてる。ピンボケしている。そういう状態で、物事に向き合ってるから、ダメなんじゃないのか、と。

ただね。私も、大人になってきましてね。そういう「世の中の言葉」を、とりあえず、そのまま受け取るくらいのことはできるようになってきました。

だから、いいんです。「解像度が高い」は、物事をしっかり正確に理解・把握すること、で。大丈夫です。(今日のところは)

そのように定義したうえで、改めて考えてみると、年を取って、経験を積んできたことが解像度の高さに直結しているなと思うんですよ。一つの物事の、一側面だけを見て、わかった気になることも少なくなりました。他の似た事象を引き合いに出して、違う角度、違う切り口を使って考えてみる、なんてことが普通にできるようになるんですよね。
そうしていくと、物事を「解像度高く」捉えることができます。

が、しかし、その一方で、加齢とともに衰えるものがあります。「視力」です。

ははは、と笑う所なんですが、これ、比喩表現の意味でも、視力が低下するんですよ。見えないんです。

解像度高く物事を捉える、と言ってもね、そもそも見えてないとどうしようもないんです。

経験則がバイアスをかけてしまうのか、思い込みが引き起こす視野狭窄で死角が増えてしまっているのか、脳の認知機能の衰えで存在を認識することができていないのか、理由はともかく「そういう物事がある」ことに気付けないんです。

たとえば、自分とは異なる環境の人のことは、脳内で除外されていたりします。「マーケティングを考える際に、都市部の人だけを対象にしてプランニングしてしまう」みたいなものですね。自分が普段見ている世界の外は、見えない。

いや、そういうのは若い時だって見えないじゃん、って話になるんでしょうけど、若いときは「見ようともしていない」んですよ。それは、視力とは別の話なんです。
一方、年を取ってくると、「見た方がいい」と認識し、「見よう」と目を凝らすんです。でも、見えない。つまり、視力の話。

要するにね。
年を取って、一線を退いたときに、自分が見えているものだけがすべてだと考えて、そこの「解像度の高さ」に自信をもって、あれこれ語るのは、危険だよね。
ってことなんです。

老害になる未来しか見えない自分への、強い戒めとして、ここに記しておきます。

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