『大河の一滴』

を読んでいる。
大河の一滴を読んでいると
五木寛之と会話しているような気になる。
会ったこともなければ顔もわからない人生の先輩だけれど、「五木さん、それは極端すぎやしませんか、わかる気もするのですが」と酒を片手に会話している気になってくる。
結果おもしろい考え方であるし、私よりも長く生きている先輩のいずれ私もそう考えるようになるかもしれない事実のようにも感じる。
極端すぎるわけではなく、私よりも知っていること・体験したことがはるかに多い方なのだ。
ただすでにこのまだ短い人生でも「五木さん」が体験していないであろうことの中を私はおそらく生きている。
全人間そうだろう。
「わかるーっ」って言ったって100%わかることなんてことはない。わからないのが正常だ。
だから「わかろうとする」ことに価値があると考える。
身の周りにない、いない、からそんなものは無いとするのはあまりに浅はかであり寂しいものだ。
せっかく思考し想像でき言葉もある生物に生まれたのに、見えないものは存在し無いといいうる人間が統治する場にいることが人が政治への興味を失う理由であり、奮起して声を上げなければならない理由であろう。

生まれながらに泣きながらこの人生の悲劇を憂いながら生まれ落ちた人間とすれば、それすらすべて大したことには思わなくなる。
必要あらば声もあげよう。

まだあと半分「五木さん」との会話が残っていることが今私の楽しみである

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