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【書評】「狂伝 佐藤泰志 無垢と修羅」(中澤雄大 中央公論新社)、「スヌーピーがいたアメリカ ピーナッツで読みとく現代史」(ブレイク・スコット・ボール 今井亮一訳 慶応大学出版会)

出版社を退社した30代はじめから、資料を読み込んだりすることもあって、365日のうち何らかの仕事をしないのはひどい二日酔いの日だけだった。

最近は、コロナ後遺症の頭痛もあるので、ペースを落として土日は休むようにしている。

とはいえ、本は読む。


長らく積ん読になっていた二冊を読み終えた。


まず「狂伝 佐藤泰志 無垢と修羅」(中澤雄大 中央公論新社)

20代の頃、井田真木子さんと一度だけ仕事をした。そのときに日本の純文学=私小説となったことで、日本文学が矮小化、世界に通用しずらくなったのではないかという話で盛り上がったことがある(そもそも日本の古典は日記文学から始まっている。私小説のようなものだ)。社会的な問題を題材にするよりも,半径5メートルで起きたこと、内省的に描くことが高尚であるという考えがあるのではないかと。

井田さんも日本文学の脆弱性はテーマの一つになるとおっしゃっていた。彼女はその本を書くことなく、この世を去ってしまったが。

この本の主人公、佐藤泰志は人生の経験を全て作品にする「私小説家」である。著者の中澤雄大さんは彼の貧しい育ちから丹念に追っていく。ただ、読み進めるのがつらい。彼は貧しく、泥の中を潜り、もがく姿は痛々しい(村上春樹さんと同じ年というこの対照!)。

就職せずに作品を書き続けていた知人のことを思い出した(行方は知らない)。「私」に題材を限定すると、テーマは確実に枯渇する。それでも、この41才で自死した作家に対する中澤さんの熱量で、読み終えることができた。圧倒的な取材量と情熱に対して、ノンフィクションの書き手として敬意を払う。



「狂伝」は分厚さも「狂」っている。

かつてスヌーピーの本を手に取ったとき、その内容が自分の思っていたのと違った記憶がある。

なぜタイトルが「ピーナッツ」なのか。なぜスヌーピーは、ゴーグルにスカーフをなびかせた時代錯誤の「撃墜王」を名乗っていたのか——。その理由を「スヌーピーがいたアメリカ ピーナッツで読みとく現代史」(ブレイク・スコット・ボール 今井亮一訳 慶応大学出版会)でようやく理解できた。

ピーナッツは、新聞を売るための連載漫画だった。多くの通信社に配信してもらうために、人に嫌われない「優柔不断」が根本にある。そして作者のチャールズ・シュルツは用心深く、社会問題をどちらにも解釈できるように入れて行く。フランクリンのような黒人の登場人物を使った「多様性」、「エネルギー問題」「ベトナム戦争」「ウーマンリブ」。

シュルツが活動した時代は新聞全盛期だった。全米からシュルツ宛てに送られた手紙も多数引用されている。作家とのやりとりが興味深い。今では考えられない。

気鋭の歴史学者がコミックという大衆カルチャーでアメリカの近現代史を読み解いていく。先日読んだ「アメリカは自己啓発本でできている」に通じる流れがある。ちなみに原題は「チャーリーブラウン」だが、日本では「スヌーピー」を使っている。当然か。

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