あきらめのススメ
あきらめ、漢字で書くと、諦め。またの名を諦念。テイネンテイネンテイネン〜♪
(『宝島』のメロディに合わせてどうぞ)
語感としては、「あきら」のあたりにピカピカした明るさがありつつ、さらに「らめ」でまばゆさがプラスされ、音だけを聴いたらなかなかのキラキラ感である。
アキラメと書くと、海底に住む扁平フェイスの魚を思わせる。アキラメは、白身魚で煮付けにすると大変美味しい。
あからめる、と入力ミスを犯すと、ほんのり頬が桜色に紅潮する感じが甘酸っぱくてよい。
今日はあきらめについて書く。
なぜなら、この日本社会を覆う閉塞感やディストピア感、そしてこの日本社会に瀰漫する瘴気の大元に「あきらめの悪さ」があることに思い至ったからである。
あきらめとは
ところで、あきらめってなんだろう。
あきらめにはまず、「こうあるはずだ」という予期や、「こうあって欲しい」という期待や、「こうあるべき」という理想が必要だ。「どうなるかわからない」「どうでもいい」といった予期も期待も理想もない状況においては、あきらめようがないし、「どうでもいい」はむしろあきらめるときの決まり文句である。
つまり、あきらめの前提として必ず、予期、期待、理想があるわけだ。まずここを押さえておこう。
ではもう一歩踏み込んで、それらの背後には何があるんだろう。
予期の背後には過去の経験や知識が、期待の背後にはルサンチマンや投影が、理想の背後には社会規範や慣習が隠れていそうだ。
そして予期が外れ、期待が裏切られ、理想が現実に圧倒されたとき、人はあきらめる。
あきらめない人たち
ところがである。
殊、本邦においては、とっくに予期は外れ、期待は裏切られ、理想は現実に圧倒されているにも関わらず、「あきらめない人」がいる。うじゃうじゃいる。
原発しかり、コロナ対策しかり、東京五輪しかり、憲法改正しかり…とにかくみんなあきらめない。
卑近な例を挙げよう。
私は竹細工を生業としていて、多くの人に竹細工を教えている。竹を割って剥いでひごにするのは簡単ではないので、その勘所を掴めるようレクチャーをしている。
たまに割れにくい竹がある。
ある程度の経験があれば、見た目の感じや刃を入れた感じですぐに違和が身体に広がる。この竹はあぶない、やめておこう、とあきらめることも多い。
ところが初心者ほど、あきらめられない。
「割れるはずだ」
「割れて欲しい」
「割れるべきだ」
意地になって力が入る。姿勢が崩れる。たいてい怪我をする。
お分かりだろうか。
「あきらめられない」というのはつまり、予期や期待や理想を「捨てることができない」ということだ。「あきらめる」は中国語では「放弃fangqi」つまり放棄、「捨てる」が「あきらめる」なのである。
立場主義の影
ではなぜ、あきらめられないのだろうか。
なぜ、予期や期待や理想を捨てられないのだろうか。
私の見立てでは、立場主義の要因が大きい。
立場主義とは、私の敬愛する友人である安冨歩さんの案出した概念である。
「立場主義」は、自分の立場を守るために必死で「役」を果たそうとする行動パターンです。第二次世界大戦で日本社会に浸透し、戦後は高度成長を実現したことで日本社会のエートス(習慣、気風)になったと考えています。「立場主義」の社会で働く人は、みんな一緒に辛い環境を耐え忍んでいる――、「ホモソーシャル」で「マゾヒスティック」な「ホモマゾ」なんです。
日本の本当の名は「日本立場主義人民共和国」であると彼が喝破したほどに、立場主義は日本社会の深部にまで浸透しているので、当たり前すぎて自覚すらも難しい。
なぜ、あきらめられないのか。
なぜ、予期や期待や理想を捨てられないのか。
それはつまり、立場を守るためにほかならない。あきらめてしまうと、立場が危うくなるのである。立場を失うことは社会的な死を意味する。だからどんな外れた予期でもどんな裏切られた期待でも、立場を死守するために、捨てられない。
そして本格的に立場を守れない状況に追い込まれると、あきらめるかと思いきや、「あきらめ」を飛び越えて自害する。日本人の辞書に「あきらめ」という文字はない、それは常に「あきらめられない」という不可能形でしか用いられない。
あきらめが、活路を拓く
先述のように、竹細工のような小さな手仕事でも、「あきらめられない」が一生ものの深い切り傷につながるくらいだから、それを長年にわたり続ければ致命傷を負うのは必定である。
その危険性を承知の上で、それでも立場があるせいで、あきらめきれないのが日本人だ。
しかし、である。
多くの偶然が重なって、私には「あきらめる」という選択が許され、他でもなくその「あきらめ」こそが、私に多くの活路を拓いてくれた。
例えば、ヴァイオリン。
この楽器はあきらめる人が多いように思うかもしれないが、私のはそんな「雑なあきらめ」ではない。あきらめにも作法がある。ただあきらめればいい、というものではない。
まず私は、ポジション移動をあきらめた。
これはヴァイオリンをかじったことがある人ならすぐにわかることだが、ポジション移動はだいぶ初歩的な技術である。その初歩的な技術を、私はあきらめた。
そして、正しい楽器の構え方と弓の持ち方をあきらめた。
私はMartin Hayesという人のヴァイオリンが世界で一番美しいと思っていて、彼のように弾きたい。彼はポジション移動をしないし、構え方も持ち方もむちゃくちゃだ。彼にたどり着いて、彼を真似る中で、ポジション移動も正しい構え方も持ち方も結果的にあきらめることになった。
あきらめた結果どうなったかというと、私はいま、お金をもらってヴァイオリンを弾いたり教えたりしている。
あきらめがなければまず無理だった。ポジション移動や正しさを「あきらめられない」ような立場主義的な頑迷さを引きずっていたら、ヴァイオリニストとしてはとうに死んでいたに違いない。
精緻なあきらめ
先ほど「雑なあきらめ」と書いたが、私に多くの活路を拓いてくれたのは、それではない。「雑なあきらめ」は「あきらめ」のようでいて、「あきらめられない」の一形態に過ぎない。そこを混同してはいけない。
大事なのは、「精緻なあきらめ」だ。
例えば私は最近、バレエを始めた。
42歳のおっさんが、「年甲斐もなく」「恥も外聞もなく」バレエを始めるなんてやもすると「あきらめが悪い」と思われるかもしれない。
だが違うのである。
バレリーナとしてローザンヌを獲るとか、プロバレエダンサーとしてステージで踊る、ということを私はきちんとあきらめている。だが「プロバレエダンサーを目指すこと」と「バレエを始めること」はイコールではない。だから私は前者のみを明確にあきらめた上で、バレエを始めたのである。この「精緻なあきらめ」がなかったら、私はバレエを始められなかった。
私の生業は、全て「精緻なあきらめ」に支えられている。中国語は「ネイティブにはなれない」というあきらめが、竹細工は「職人にはなれない」というあきらめが、生業としての活路を拓いてくれている。
あきらめをよすがに
たとえ「精緻なあきらめ」であっても、当然そこには痛みや恥が伴う。立場を守ろうとすると、その痛みや恥にまず耐えられない。
だが私は二年前に自営を始めて以来、幸運なことに、多くの「立場」から自由になることができた。そのおかげで、あきらめに伴う痛みや恥に耐えられるだけでなく、冷静に「あきらめの腑分け」ができるようになった。「雑なあきらめ」に逃げる必要がなくなった。これは本当に大きい。
「あきらめ上手になりましょう」
今日の二胡レッスンでの私の言葉だ。
私が教えている二胡という楽器は、音の立ち上がりがとても大事で、音がうまく立ち上がらなければ、その後どんなに気を張っても力を入れても工夫をしても、その弓で音が綺麗になることはない。だから二胡奏者は音の立ち上がりに細心の注意を払うし、立ち上がらなかった音はすぐにあきらめられる。
でも今日の生徒さんは、うまく音が立ち上がらなかったにも関わらず、あきらめられない。弓の途中であの手この手を使って音を良くしようと必死だ。ずっと集中しっぱなしで、そのままでは疲れ果ててしまう。
そこで私から出てきたのが先ほどの言葉だ。
「あきらめ上手になりましょう」
あきらめるために、やる
ではどうすれば「精緻なあきらめ」ができるんだ、と問われれば、「やってみる」以外にない。やらないうちから事前の下調べを重ねて予備知識を増やしても「雑なあきらめ」にしかつながらないし、それでは「あきらめられない」をこじらせるだけだ。やってみれば、「あきらめの腑分け」ができるようになる。これはあきらめるけど、これはできそうだ、と。
あきらめるために、やる。
こんな風に書くと、自滅願望でもあるのかと思われてしまうけど、そういうことでは全然なくて、
楽しく何かをやり続けるためにはどうしても「あきらめ」が必要で、その「あきらめ」を見極めるためにはどうしても「やる」という実践が必要で、そのためには「やる」を邪魔する立場から自由になる必要がある、というわけだ。
あきらめは英語でgive up。
これを私は「アゲアゲ」と訳したい。
giveもupもアゲルだし。
そんなわけで、みんなもなるべく「立場」から自由になって「精緻なあきらめ」を見極めて、気分はアゲアゲで参りましょう。
「あきらめる」を、あきらめない。
そんな決意表明もあっていいきっと。
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