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「甘くない考え」で「甘い世の中」を志向する

世の中そんな甘くないよ…
考えが甘いね…

一体今まで何回くらいこの手の「ありがたい言葉」をかけていただいただろう。

考えてみれば「甘くない」という否定も、「甘い」という肯定も、結果的に同じような意味合いの「アドバイス」なのが興味深い。しかも主語を逆にするとおかしなことになる。

世の中は甘いね…
考えが甘くないよ…

つまり上述の「アドバイス」は、何かの肯定や否定として「甘いか否か」を論じているわけではなく、いわばアプリオリに、考えというのは甘いもので、世の中というのは甘くないものなのである。

ではなぜ一々、アプリオリに確定している事柄を、さも今気づいたかのように言語化して「アドバイス」として伝えるのかというと、

構造的に反駁不能なマウンティングフレーズで、無条件に「アドバイスする側」に回れる、という「絶対負けないゲーム」に興じたいだけだ。

だから、その手の「アドバイス」は鳥の鳴き声か木々の葉音くらいにぽかんと聞き流せばいいわけだが、いかんせんヒーリングとは真逆で耳障りではある。

なので、ここはあえて、まとめて反駁を試みたい。

私の考えは、甘くない。なぜなら、私は世の中を、甘くしたいと考えているからである。

これである。

考えが甘い」というのを言い換えてみると、「簡単に考えすぎ」「勉強が足りない」「世間を知らない」「深く考えていない」「現実はシビアだ」あたりであろうか。

では、「何をどうしたら考えが甘くなくなるのか」という質問に答えられる人はいないので、言われた側は押し黙るしかない。端的に言ってこれは「アドバイス」の皮をかぶった呪いである。

だがここでブレイクスルーを試みる。

セットで使われる「世の中は甘くない」を利用するのである。

これは完全に私個人の意見だが、

私は、世の中は甘い方がいい、と考えている。

そして、私の仕事や生活を通して、世の中を甘くすること、を目指している。

そのために、いかにこの世の中が甘くないかについて日夜考えを巡らせ、私の取り組みは常に、この世の中を甘くするか否か、を基準として実践に移すかどうかが決まる。

恐らく先ほどのような安直な「アドバイス」を下さる方で、「世の中を甘くすること」について、私よりも「現実的に」「シビアに」「深く」考えている人は、いまい。

考えてないからこそ、そんな阿呆な「アドバイス」を繰り出せるわけで。

何が言いたいかというと、少なくとも「世の中を甘くすること」に関して言えば、私の考えは、少なくともその「アドバイス」を下さる方に比べれば、「甘くない」わけである。

お分かりだろうか。

私の考えは、甘くない。

こう堂々と反駁して、差し支えがないのである。

しかしだ。

相手は、恐らく承服しないだろう。

場合によっては、怒り出すかもしれない。

下手をすると「だからお前の考えは甘い、と言っているんだ。世の中はそんなに甘くない」と壊れたテープレコーダーのようにリピートを始めるかもしれない。

水掛け論は、避けた方が身のためだ。いたずらに心を湿らせる必要はない。黴ると厄介だ。

考えが甘いね…世の中そんな甘くないよ…

私は、心中でいつもつぶやく。

私の考えは、甘くない。なぜなら私は世の中を、甘くしたいと考えているからである。

私は、世の中を甘くしたい。

だから今日も私は

ニヤニヤと音を奏で

ヘラヘラと竹を割る。

たまにコンビニで買う

チョコエクレアをつまみながら。





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