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長編連載小説 Huggers(55)


沢渡は、NYからの知らせを受け取る。

沢渡  9

「沢渡哲史様

初めまして、疋田愛華(ひきたあいか)です。
メールありがとうございました。
文面から、沢渡さんの誠実なお人柄、詩帆への真摯な思いがひしひしと伝わってまいりました。ですので、「主人から問い合わせがあってもナイショにしてほしい」という詩帆との約束は破って、このようにお返事させていただいています。

ご拝察の通り、詩帆は先月の終わりに、弟さんのところからここニューヨークに来ました。私のアパートメントに3泊し、その後、予定通りであればボストンに向かったはずです。
こちらでは、ほとんど観光はせず、9/11の博物館と、詩帆が以前映画で見てどうしても行きたかったという、大きなおもちゃ屋さんだけ見て、あとはもっぱら近所を散歩してすごしました。

たくさん話はいたしました。
生きる事について、人との関係性の難しさについて、死について、いろいろなことを話しました。
ただそのなかで、家を出た理由や、沢渡さんとの関係についての具体的な話は何も出ませんでした。私からも特に尋ねることはいたしませんでした。
そのような訳で、残念ですが、沢渡さんに対する今の詩帆の心情については何もお話しする手がかりがないのです。

1度だけ、沢渡さんの話題が出ました。
ハネムーンはボストンだったんですって?
沢渡さん、フェンウェイパークで、初めて大リーグの試合を生で見たって、大喜びしたそうですね? それから、路面電車に乗って、あんまり揺れるんで沢渡さんが酔って、途中下車した話とか、ノースエンドのイタリアンレストランで、一人でボウルいっぱいのはまぐりをたいらげて、店員さんをたまげさせた話とか、詩帆はたくさんしてくれました。
その話をしているとき、詩帆はとっても楽しそうで、いっぱい笑っていましたよ。

詩帆は昔から、優しい子でした。ガラスに当たってケガをした鳩を抱いて泣き、近所の猫が迷子になったと言って泣き、テレビで見た遠い国の子どもたちのために泣いていました。
そんな詩帆がどうして、何も言わずにあなたをおいて家を出てしまったのか、あなたの話をしていたときの詩帆の幸せそうな様子を思い出すにつけ、ますますわからなくなります。
だから、一刻も早く連れ戻して、詩帆の気持ちを知りたい、理解したい、謝りたい、とおっしゃるあなたの気持ちはよく理解できます。

ただ、あまり急がないでほしいのです。
言葉では、なかなか表現できないことって、あるのではないでしょうか?
自分自身でも表現はおろか、特定することもむずかしいような非言語的世界、心の奥の秘められた場所を、誰もが持っているのではないでしょうか?

私はこの10年間、この国で瞑想とヨガの教師をしながら、世界中から来た人たちに出会ってきました。心の傷を抱え、悩み、生きることに苦しんでいる人たちを、たくさん見てきました。
さまざまな人が来て、去っていきました。
そして今、思うことがあります。

この世のほとんどの出来事は、私達の理解をはるかに超えたところで起こっているのではないかと。
それらに意味や理由を求めること自体が、空しい行為なのではないかと。
成功にしか見えない失敗もあり、失敗としか思えない成功もあります。
間違いにしか見えない正しさもあり、正しさにしか見えない間違いもあります。
罰にしか見えない赦し、弱さにしか見えない強さ、悪にしか見えない善、その全部に逆がある。
そしてたぶん、そうしたすべてを一切合財、容赦なく包み込む愛があって、その愛からすべてが起こっているのではないかと。
その愛をたとえ、この世の誰一人、理解できないとしても。
今私は、そう思います。

もし、こちらへいらっしゃるなら、ぜひお待ちしております。
ただしニューヨークの12月は非常に寒いです。氷点下になりますので、どうか覚悟の上お出かけくださいね。
ご連絡お待ちしております。

疋田 愛香 拝」

(つづく)

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