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長編連載小説 Huggers(66)

颯は、「彼ら」に思いを馳せる。

颯  2

          

 ハヤテは三階まで吹き抜けのフードコートでポーク・フライド・ライスを食べながら、代表の形見のマックのパソコン画面をのぞいていた。
 ハヤテが見ているのは、動画サイトにアップされた、1か月ほど前の日本の朝のニュース番組の映像だった。30代後半の頭の切れそうな女性キャスターが「このたび、日本ハガー協会を、解散することといたしました」という内容の、永野がいくつかの報道機関に送ったファックスを読み上げている。
「以上がファックスの全文です。さて、これでこの数週間にわたる、ミアさんのいわゆる『覚醒』騒動に一応の決着がついたわけですが、この一連の騒ぎの中で、新たに注目されるようになった言葉があります」
 画面に「悟り」と書かれたフラップが出された。
「悟りというと、一般にはお釈迦様が到達した境地とか、長年修行した禅僧などがたどりつく精神状態というイメージがありますが、今回このハガー協会の代表、いや元代表が、それは普通の人にも簡単に実現可能であると主張したことで、様々な反響を呼びました。このことについて、明光大学哲学科の講師で、スピリチュアル分野にくわしい神谷信行さんにお話を伺ってきました」
 インタビュー映像に切り替わる。画面に40代前半とおぼしき丸顔にメガネをかけた人のよさそうな男性が現れた。専門書が並ぶ本棚とパソコン机を背にしている。おそらく大学の研究室で撮られた映像のようだ。
「――ハガー協会は宗教団体なのか?」という字が画面に浮かんだ。
 男性はうなずいてしゃべり出す。早口なので、ハヤテは日本語の聞き取りに苦労する。近ごろは自動翻訳が画面に表示されるようになっているので非常に助かるのだが、微妙な内容の場合、正確を期するには、やはり元の言語から自分で類推する必要を感じる。

「そうですね~。宗教という言葉は使う人によってニュアンスが異なるので一概には言えませんが、特定の神や高次の存在に帰依することによる魂の救済を説くのが宗教であるとすれば、このハガー協会は宗教とはいえないでしょうね。代表の永野さんという人が取材を受けているVTRを何度か見せていただきましたが、彼の言っている『自己の本質は肉体や思考や感情ではなく、それら一切を認識する意識である』という考え方は、古代インド哲学、初期の仏教、老荘思想、禅などの流れを汲む、古来からの思想で、特に目新しいところは何もありません。

 その自己の本質を、知識として理解するだけでなく、思考を通さず体験的に理解することがいわゆる『悟り』だと言われています。あまり知られてませんでしたが、『悟り』は何年も前から、ごく普通の人たちのあいだでひそかなブームを呼んでいたんですよ。一般の人が悟りを開くためのセミナーや瞑想会なども実はたくさんあります。このハガー協会も、そうしたたくさんの団体のひとつに過ぎなかったようですね」

「――『悟り』とはそんなに簡単に達成できるものなのか?」

「その可能性は低いと思いますね。この団体は、従来、長年の修行や瞑想をしなければたどりつけないと言われてきたその悟りの境地に、ハグという物理的な方法で短期間に、本人の努力なしにたどりつけると主張していたようですが、私もそのようなヘンテコな話はほかに聞いたこともありませんので。万が一そのようなことが可能だったとしても、偶然か、おそらくは非常に特異なケースだと思いますね。中には一瞬で悟りに到達したという人の話もなくはないのですが、数は少ないですし、意図的にその状態を起こせるというものでもないようです」

「――『悟り』ブームはこれからも続くか?」

「ブームというものは、一過性だからブームと呼ばれるんです」男は笑った。
「一時的なブームはすぐ去るでしょう。でも『悟り』を求める人たちは何千年も前から途絶えたことはありません。だからこれからもいなくなることはないでしょうね」

「――『悟り』はほんとうに人を幸せにするのか?」

「これはね、むずかしいですね。世界中に悟った人、覚者と言われる人たちは何人もいますが、確かに幸せそうな人が多いです。でもこればかりは、実際に悟ってみないとわからないですからね~。また、悟ったと自分で思ったとたんに、もうそれは悟りから離れているという解釈もありますしね。
 ただですね、今回このような事象が社会の注目を集めたことは、大きなことだと私は思うんですよ。

 私達人間は、かつては大いなるものの一部でした。太陽のリズムとともに目覚め、眠り、あるときは大自然のふところに抱かれ、あるときは大自然の脅威に翻弄されながら、他の生命と運命を共にし、宇宙の一部、全体の一部として生き、そのことに何の疑問も持たずに受け容れていました。

 その後文明が発達するにつれ、人類は生きるために集団生活を営むようになりました。多くの時代を人々は部族や、国家や、教会などの集団に組み込まれ、それらの集団の構成員としての自分しか知らずに過ごしました。個人としての自分など、おそらく想像もつかなかったことでしょう。

 やがて産業化が起こり、都市が形成され、生活形態の変化とともに「私」という概念が確立され、私たちは個人として自分自身を生きるようになりました。しかしそれと引き換えに、大本との一体感を失ったんです。

 今や、ことに私達日本人は、たくさんの自由と権利、豊かさを手にしました。着るものも、食べるものも、住むところも、愛する人も、宗教を信じる信じない、政党を支持するしないも、自由に選択することができる。しかしこれだけのものを享受しながら、多くの人々がいまだに孤独を感じ、お金や仕事や人間関係の心配に疲れ、漠然とした不安や不満を抱えながら、糸の切れた風船のように、バラバラに空中を漂っているように見えます。
 そこから抜け出すための手段として『自己理解』というのは大きなキイワードになってくる思いますよ。

 大自然や宇宙の一部であった当時の生活に戻ることはもう不可能です。でも『私とは誰か』この問いは、私達を再び根源的なもの、真実なもの、生命の本質に結び付けてくれる可能性があります。
 万人にとっての真の幸せというものへの手がかりがあるとしたら、そこではないか、と私は考えています。哲学、物理学、数学、今注目の倫理学――ほとんどの学問は、究極的には私達をそこへ連れ戻します。『私とは誰か』『なぜここにいるのか』『私達はどこからきて、どこへ行くのか』――そう考える人たちはますます増えてくるでしょう」

 ハヤテは動画を止め、画面を切り替えた。そして独り言を言った。
「オグラのやつ、結局読まなかったな。おれがせっかく苦労して訳したってのに」
 画面には、ルカが病床で苦痛に耐えながら小倉にあてて書いたメッセージの一部が表示されていた。
「でも、仕方ないか。気にするなよ、ルカ」
 片手にスプーンを持ち、ぽろぽろの冷めた米を口に運びながら、ハヤテはパソコンに語りかけた。
「マンネンの書いたメッセージも、悪くはなかったぜ」
 そして選択してあった日本語のメッセージを、デリートボタンを押して潔く削除した。
 
(つづく)

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