長編連載小説 Huggers(29)
俺は何か大事なサインを見逃していたのか。
沢渡 5(つづき)
頭の中が白くなった。
「桐尾には無理です」思わず口にしていた。
「どうして?」聞き返した長谷川の口調は冷たかった。
「それは……」
「今日桐尾を連れて行って見積書の説明をさせた。根本さんは、桐尾でかまわないそうだ」
「桐尾は?」
桐尾は以前、電話の応対が悪いと根本に怒鳴られたことがあり、いつも「沢渡さんはよくあの人我慢できますね、僕には無理です」と言っていた。
「精いっぱいやりますと言っていたよ。彼女がおめでたで、年内に結婚することになったとかで、すごく仕事に前向きになってる」
「でも、桐尾は」沢渡は何か桐尾について否定的なことを言おうとしたが、それを口にすることは自分で自分をおとしめることでしかない、ということに気付いた。
「いえ、何でもありません」
「今日、根本さんに言われたよ。僕の社員教育はなってないって。うちの親父が生きていたらさぞかし嘆いただろう、と」
長谷川は自嘲的に笑った。
「その通りだと思った」
「社長のせいではありません。全面的に私のミスですから。でも――あの、社長」
「うん?」
「根本さんは、正確には何とおっしゃってましたか」
「正確にはって?」
長谷川はいぶかしそうな顔をした。
「先日電話が遅れた件と、今回日にちを間違えたことだけでしたら、正直、そこまでご立腹になる理由がわからないんです。――いえ、それがたいしたことじゃないというつもりは決してありません。ただ、もしかしたら何かほかのことで、ずっと私に対してご不満があったのではないかと」
「何か心当たりがあるのか」
「そういうわけではないんですが。私はもしかして、自分で気づかないうちに人を不快にさせてしまう傾向があるのかもしれないと思いまして」
長谷川ははっとしたように沢渡を見て、それから目を逸らした。
「もう、いいよ」
「え?」
「根本さんのことは、これ以上気にするな」
「いえ、でもそういうわけには」
長谷川は沢渡の言葉をさえぎるように手を上げた。
「沢渡。起こってしまったことは仕方ない。人は間違いを犯すものだし、次にまた同じミスをしなければそれでいい。だからこの話はおしまいにしよう。あとは桐尾に任せて、君はほかの仕事に専念してほしい。引き継ぎだけはしっかり頼む」
「ですが、社長」
なおも食い下がろうとすると、長谷川は立ち上がり、追いすがる沢渡の視線を避けるように背中を向けた。
「ごめん、今日はもう疲れたんだ。帰らせてもらうよ」
自宅のマンションが見える曲がり角までくると、ほんの微かな期待を抱く。
今日こそ、窓に明りがついているのではないか。無駄だとわかっていても、その小さな望みにすがりついて生きている。
しかし今日も、見上げた窓は暗いままだ。
鍵を開けて玄関を入ると急に疲労が押し寄せてきて、沢渡は明りもつけず、靴も脱がずに玄関にすわりこんだ。そのまま両手で顔をおおう。
どうしてこんなことになってしまったのか。
詩帆がいなくなってから今まで、仕事の場面では自分でも驚くほど平静に気持ちをコントロールして業務に集中してきた。
それ以外の時間は、詩帆が仕事復帰してから再開していた家事当番制を守って、週三回は自分で食事を作り、洗濯をし、休みの日には掃除をし、いつものジムに自転車で行って汗を流し、同じフロアにあるカフェでコーヒーを飲み、いつものコンビニでビールとつまみを買って帰る。そうした一つ一つの習慣をまるで儀式のように守り続けることで、何も変わっていない、妻はすぐに帰ってくる、と自分自身に言い聞かせてきた。
しかし、どこにいるともわからない詩帆からは離婚届を送りつけられ、誠意を尽くしてきたはずの根本からは「顔を見たくない」と言われ、長谷川からも相手にされない。ふと桐尾の顔が頭に浮かんだ。結婚する、と言っていた。子供が生まれると。妻と子供、沢渡がなくしたもの、得られなかったものを一度に手にすると。
だが不思議に桐尾が憎くはなかった。むしろそれは当然のことに思えた。エリート家庭の帰国子女で、一流大学を出て、容姿もよい桐尾は、生まれながらにそうした幸運を空気のように身にまとって生きているのだという気がした。
自分はそんなぜいたくを望んではいない。望んだのはほんの小さな幸福だ。それなのに。
どうしてこんな目に合うのだろう?
自分が何をしたというのだ?
こんなふうになる前に、前兆はあったのだろうか? みんなが出していた何か大事なサインを、自分はずっと見逃してきたのだろうか。
沢渡が必死で守ろうとしてきた、小さいけれど堅実で平和な世界に突然亀裂が入り、端からぽろぽろと崩れかけてきている。
「誰か」
気が付くと、天井を仰いで声を上げていた。両手のこぶしを握り締め、姿のない何者かに向かって、彼は叫んだ。
「誰か教えてくれ! 頼む。俺はどうしたらいい? どうしてこんな目にあうんだ?」
今まで口に出したことのないそれらの思いを言葉にしたとたん、心の奥深く抑え込んできたあらゆる種類の感情が、爆発するように一気にあふれ出してきた。
「どうか答えてくれ……、誰か……誰か」
あとは涙で言葉にならなかった。ああ、うう、ああ、という呻きとも唸りともつかない声を発しながら、沢渡は小さな子どものように体を丸めて泣いた。
どれくらいそこでそうしていたのか、気が付くと玄関の壁に寄り掛かってうとうとしていた。半分寝惚けたまま立ち上がろうとして、何かを蹴とばした。何だろう、と沢渡は思った。なぜかわからないがそれがひどく大事なものであった気がして、リビングのレースのカーテンを通して玄関まで差し込んでくる、微かな外の明かりを頼りにじっと目を凝らした。
昼間、義母が持たせてくれた梅の醤油漬けの入ったガラス瓶が、カラカラと音をたてて廊下を転がっていくのが見えた。(つづく)
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