見出し画像

長編連載小説 Huggers(58)

小倉は最後のブログを更新する。


小倉  9


 いつもの喫茶店の、いつもの窓際に座って2時間、今日はまだあの人の姿を見ていない。
 いったいあの人を本当に見たいのか、それとも見つめるだけしかできない自分をあわれみたいのか、正直なところ、小倉にはもうよくわからなくなっていた。
 裕子を突き放してから数週間、精神的には生きているのか死んでいるのかはっきりしないような日々を過ごしていた。
 マンション管理員の仕事はしていた。おそらく、はたから見る限りではそう大きな変化はなかったはずだと思う。むしろ熱心にやっていると思われたはずだ。
 ブログの更新は続けていたが、メールソフトは開かなかった。携帯の電源も切ったままだった。
 永野は小倉の住所や固定電話を知っているが、彼からも連絡はなかった。 気がかりなのは、他のホルダーたちだった。「はちみつティガー」の空のような青い透明感、「マハラジャの弟子」の虹のような色彩豊かな躍動性、「亀はマンネン」の常に安定した、頼りがいのある、いぶし銀のような持ち味。それぞれの味わいを感じ分けられるほどに、裕子とともに彼らと共振を続けてきた。
 自分が裕子を、そして彼ら全員を放り出してしまったことを、彼らはどう思っているのだろう。キンモクセイもいなくなった今、メインホルダーなしで、どうやって共振を行っているのだろう。
 最初の1週間ほどは、小倉は気になって、共振を感じると同調していた。だがそのうちつらくなり、同調するのをやめると、次第に共振を感じなくなった。
 あんなにはっきりと、すぐそばにいるようにありありと感じていた裕子の気配もだんだん遠ざかり、存在を感じることができなくなった。こうして自然に、西野裕子のホルダーとしての役目も消滅していくのだと思った。

 向かいの文具店の自動ドアが開き、10分ほど前に店に入っていった、体格のいい中年の女性が出てきた。店の中に向かって手をふり、何か話しかけている。それから踵を返し、道をこちら側へ渡った。そのまま、喫茶店の下の階にあるケーキショップに入る。
 まもなく、階段を上がってくる人の気配がして、さきほどの女性が入口を入ってきた。年齢は五十代くらい、一階ぶんの階段を上っただけで息を切らしている。店員に案内されて、小倉の背後にあたる壁際の四人がけの席にすわった。
「お連れ様が来てから注文されます?」
女性に水を持ってきた店員の言葉に小倉はドキッとした。
「そうします」
 落ち着かない気持ちになり、席を立とうかどうしようか迷っているうちに、文具店の彼女が店を出てきて、小走りに道を渡ってくるのが見えた。伝票をつかんだまま動けないでいると、彼女が階段を上がってきて、笑顔ですっと彼の横を通りすぎ、中年女性の向かい、小倉と背中合わせになる形ですわった。
「お店大丈夫やのん?」
「うん、お父さんがいるから、ちょっとなら」
「そう。でもほんまによかったわぁ、近くの人で。あんたが嫁に行ったら、お父さんが一人で困るやろって、心配してたんよ」
「そうやね、ちょうどうまいこと地元の人でよかったわ」
「もう式の準備でけてんの?」
「内輪だけの式やからね。たいした準備もいらんのよ。あ、私レモンティお願いします」
「ナホちゃん……。ほんまに、……よかった。おめでとう」
「やだ、おばちゃん、急に泣かんといてよ」
「だって、うれしいやないの。ナホちゃん、小さいころからつらいことばっかりやったでしょ。やっと幸せになれんねやと思て」
「なれるかな~」
「なれるなれる。優しそうな人やんか」
「うん、まあね。見た目はちょっと、あれやけど」
「何いうてんの。優しいのが一番や。四十近いくせに、ぜいたくいわへん」
 二人は声を合わせて笑った。
 小倉はそっと席を立つ。
 もうそろそろ、ここに来るのもやめなければと思っていた。潮時だ。
 
「昨日の続き。
 小2の夏休みだった。
 M(妹)が死んだ朝、俺は可愛がっていたハムスターを殺した。踏み潰して殺した。
 なぜそんなことをしたのか。理由はなかった。あとからなら理由はいくらでもつけられる。でもそのとき確かに理由はなかった。
 救急車が来て、母が泣き叫んでいた。不思議だった。なぜいまさら泣くのだろう。悪魔はどこかに姿を消していた。
 救急車が妹と付添の母を乗せて行ってしまった。俺はハムスターをビニール袋に入れて通学路の途中にある文房具屋へ行った。夏休み中は毎日、高校生の女の子が店番をしていた。
 いちどそこでノートを万引きしようとして、見つかったことがあった。女の子は俺を上から下までじろじろ見て、「ちょっとあんた、○○小の子やろ。お金ないのん?」と言った。そして俺の手をぎゅっとつねって、「もう二度と、こんなことしたらあかんよ。はよ行き」と言った。それから俺はときどき、その店に行った。店主のおじさんがいつもじっと見てくるので、恐くて中には入れず、外からのぞいていた。毎日昼休みになると、女の子が裏口から出てきて、なぜかそこにすわっておにぎりを食べる。俺はそのそばに行って、前に立ったり、まわりをうろうろしながら、いろいろなことを話しかけた。どうしても笑わせたくて、テレビで仕入れたくだらない下ネタとかをいっぱい話した。
 女の子は「また、あんた?」といやな顔をするが、食べ終わるまでのあいだ、俺の話を黙って聞いてくれた。ほんの時々、クスッと笑うこともあった。

 その日、俺は女の子が昼に出てくるまでずっとそこで待っていた。出てくると、黙ってビニール袋を見せた。女の子は気持ちが悪そうな顔をして、「それ死んでんの?」と聞いた。
 俺がうなずくと、女の子は「待っときや」と言って家に入り、小さな紙箱と、アイスクリームの棒と、油性マーカーと、シャベルを持って戻ってきた。そして店の裏の敷地の隅に、土を掘って、ビニール袋をいれた箱を埋めてくれた。その上に泥をこんもり盛って、そこにアイスクリームの棒で墓標を立てた。「その子の名前は?」と聞かれた。俺はハムスターに名前をつけていなかった。俺は妹の名を言った。女の子はそれを書いて、棒を立てた。それから、墓の前にしゃがんで両手を合わせ、拝んだ。俺がぼうっとしていると、女の子は言った。
「何やってんの。ほら、あんたもさっさと拝みんか」。
 それ以来、その店には行っていない。(おしまい)」
「突然ですが、今日で、この眠猫平太のブログは終わりです。みなさん、今日まで本当にありがとうございました。今日まで続けてこれたのは、みなさんの温かいコメントのおかげです。でも、正直、少し疲れてしまいました。
これからどうするか。僕はまだ決めていません。ゆっくり休んで、考えたいと思います。いつもみなさんの健康と幸福をお祈りしています。
それでは、さようなら。」

(つづく)

              

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?