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長編連載小説 Huggers(20)

小倉はハガーに「詐欺ではないのか」と詰め寄る。

小倉 3・つづき

 ハガーが一人来阪するのでぜひ会いに来て欲しい、という電話が永野からかかってきたのは、あのアルバイトの面接から一週間ほど過ぎた頃だった。面接をした英会話スクールで引き合わせるという。
 約束の一時に行くと、女性事務員が申し訳なさそうに、永野は急用で立ち会えなくなったと言った。
 案内されたのは、面接会場だった会議室ではなく、日差しがたっぷり降り注ぐ大きな窓のある、二十人は入れそうなフローリングのフリースペースだった。部屋をぐるりと取り囲むように、カウンターとその下に作りつけの棚があり、おもちゃやクレヨン、絵本などがそれぞれのコーナーに整理されてしまわれている。教室の後ろと、廊下側の壁には、アルファベットや、英語の歌の歌詞などが書かれたポスターが貼られている。子供向けの英会話授業に使われる教室なのだろう、と小倉は思った。
事務員は「こちらでちょっとお待ちください」と言い残して消えた。

 なぜこんな広いスペースなのだろうとぼんやり考えながら立っていると、まもなくストライプのポロシャツとベージュのチノパンを着た五十代前半くらいの男が一人入ってきた。白髪混じりの頭髪を後ろになでつけた男は小柄で、やせている。顔立ちも目尻の下がった細い目と八の字型の眉毛のせいか優しげに見える。
「小倉さん、ですね。よかった。来てくれてありがとう」
 男は本心からうれしくてたまらない様子でそう言った。
「僕が沖本といいます。ハガーです」
「はあ」
 小倉はぼんやりと沖本が差し出した手を見た。その手をどうしたらいいか理解するのに数秒かかった。あわてて自分も手を差し出したが、思いがけないほどにしっかりと握られて戸惑った。
「どうかしましたか?」
「いえ、ちょっと、僕が勝手に抱いていたイメージと違ったので」
 言い訳するように小倉は言った。
「男性のハガーもいらっしゃるんですね。あっ、別に女性がよかったってわけじゃないんですけど」
「すみません、男で」と笑った沖本の目が、温厚そうな表情とは裏腹に鋭く自分を見つめているのに気づいて小倉はドキッとした。
「ハガーの男女比はほぼ半々なんですよ。でも実際に活動しているのは女性のほうが圧倒的に多いです。若いハガーには男性も増えていますけどね」
「はあ」
「セッション希望者は圧倒的に女性が多いですし、女性は一般的に女性にハグされるほうが安心できるようですから。――じゃ、始めましょうか」
「始めるって、何をですか?」
「ハグ・セッションです」
 当然でしょ、と言いたげな表情だ。
「ちょ、ちょっと待ってください。何の話ですか。僕はただ、一度ハガーに会ってみてくださいと言われただけです。自分がセッションを受けるなんて聞いてません」
 五十男に抱きしめられる自分を想像して軽いめまいを覚えながら、小倉はほんの少しだけドアのほうに後ずさりした。一方、沖本のほうはぽかんと間抜けな顔をして「会うだけ?」と言った。
「ええ。会って、見守るに値するかどうか確かめてください、と。それで来ただけです」「永野さんがそう言ったんですか? 会うだけと?」
 まるで怪しむように言われ、小倉は憤然とした。
「そうです」
「じゃあ、どうすればいいんでしょう」
 途方にくれたように、沖本は言った。
「それは僕が聞きたいです」
「困りました。ハグをすればいいのかと思ってきたもので」
 頭を抱えんばかりに悩んでいる沖本を見ていると、こんな頼りない人物にセッションなどできるのだろうかという疑問がふつふつと湧いてくる。どちらかというと、助けを必要としているのはこの男のほうに思えた。
「ええと、ちょっと話せばいいんじゃないでしょうか」
 さっさとこの状況から抜け出したくなり、小倉は言った。ドアが閉まっているので、広いスペースにも係わらず閉塞感を覚える。
「話す?」
 沖本はますます困惑した顔になったが、結局「そうするしかなさそうですね」と言ってあたりを見回した。そして部屋の隅に重ねてあった子供用の椅子を二つ運んできて、一つを小倉にすすめた。大人の男二人で小さな椅子に向かい合ってすわるのは妙な感じだった。 

「すみません、私、話とか慣れてなくて。セッションではあんまり会話ってしないんで」
沖本はポケットからタオル地のハンカチを出して汗をふいた。
「何がお聞きになりたいですか」
「永野さんはしきりに『心の平和を得る』って強調されてたんですが、具体的には何をするんですか」
「何をって言われても。私が何かするわけじゃないんです。私はただ文字通り、ハグするだけです。私に何かものすごいサイキックな力があると思われると困るんです。あと、人格的にりっぱだとか、高潔だと誤解されるのも。私はどこにでもいる普通の人間で、普段は役所に勤めています」
「でも、セッションを受けた人には効果が現れるわけですよね? あなたが何もしていないのなら、その人たちには何が起こるんですか」
「一概には申し上げられません。人によって起こることが、というよりは起こったことをどう捉えるかがあまりにまちまちなので。ただ多くの人が、人や物や景色が、今までと違って見えるようになると言います」
「違うって、どんなふうに?」
「多いのは、視界がワントーン明るくなったという感想です。後は、他人に何を言われたとか、何をされたというのがまったく気にならなくなる。今まですごく嫌いだった人が、どうでもよくなる。いやだと思っていた仕事や勉強が苦にならなくなる。不仲だった配偶者がいとおしくなる。まだまだありますが、効果が顕著にあらわれるのは、主に人間関係の分野ですね」
「あのう」小倉は用心深く言った。
「病気とかには、効果はあるんでしょうか」
「それは、病気の種類によります」沖本は答えた。何かを聞かれて答え始めると、沖本からは自信なさげな表情が消え、しゃべり方は急に確信に満ちたものとなり、目にも力強い光が宿る。
「あとは、効果という言葉をどう解釈するかでしょうね。肉体的な症状に直接効果はありません」
 小倉の顔に走った微かな落胆の表情に気がついたのかどうか、沖本は続けた。
「痛みをとりのぞくとか、ガンを小さくするとかそういうことはできませんが、ただ持病を持っているセッション受講者の多くは、自分の症状が気にならなくったと言っています」
「気にならなくなった?」
「病気の人の多くは、それを気に病んでいます。気に病むことで、痛みや苦痛を実際より三割り増しくらいにしています。ご本人はそれに気がついていませんが。セッションを受けたことで病気を受容すると、本当に症状が改善されたように感じるそうです」
「それってでも、ある意味プラセボ効果みたいなものですよね。裏を返せば、患者によくなったと思い込ませるってことでしょう? 詐欺に近いんじゃないでしょうか」
 口に出してから「詐欺」というのは言いすぎだったかもしれないと思ったが、沖本は表情を変えなかった。
「もし私たちが症状の改善を『効能』としてうたって人を集め、なおかつお金を取ったとしたら、それは確かに詐欺と言えるでしょうね。でも私たちは、さっき申し上げたような受講者のみなさんの感想を、ハグの効果としてうたったことは一度もないんです。それにお聞きになっていると思いますが、セッションはすべてボランティアで行われています」
「それはつまりあなた自身も、効果については保証しないということですか?」
「ええ、そうです」
「ええと……」
 小倉はこめかみに手をあてた。
「僕はなんでここにいるんでしょう?」
 沖本は穏やかな表情を崩さなかった。
「――逆にお聞きしますが、小倉さんはなぜハグを受けたくないんでしょう? 確かめるために来たんですよね。だったらここでごちゃごちゃ話してるより、さっさとハグをして帰ったほうが手っ取り早いのでは? それで何も起こらなければ、永野さんに断ればすむことでしょう」
「それは……」
「そんな特別なことだと思わなくても、スポーツ選手なんかはよく抱き合ってるでしょ。イスラム圏では男同士で抱擁するのは当たり前ですよ」
 そう言われれば、そんなものかとも思えてくる。それに何よりも、早くこの場から立ち去りたいという衝動が、小倉の中で次第に強くなってきていた。
「わかりました」
 小倉は言った。たいしたことではない。外国映画などではよくある光景だ。(つづく)

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