見出し画像

長編連載小説 Huggers(21)

いっそ殺してくれ、と小倉は思った。

       小倉 3(つづき)

 沖本は小倉の体に上半身だけを合わせてから、両手を背中に回し、そっと力を入れた。
「力を抜いて、楽にしていてください。目を閉じて」
 抱擁された、と思ったのはほんの一瞬だった。
 背中にまわされた沖本の手や、軽く触れ合った上半身の感覚はすぐに消え、自分の身体と外界との境目である皮膚感覚も消えて、自分が体の外側まで果てしなく広がっていくのがわかった。

 思いがけないほどの快感を覚え、広がるままに身を任せていると、快感だと思っていたものはある時点から経験したことのないような激しい恐怖に転じた。
 それは広がるにつれ自分というものの実体がどんどん希釈され、薄まっていって最後には何も残らなくなってしまう、という底知れない恐怖だった。 何とかして自分を自分の体の中に引き戻し、沖本の体を引き離そうとした。

 死んでしまう。
 殺される。ダメだ、ダメだ、ダメだ。
 ひどく気分が悪く、吐き気がした。
「すみません、気分が悪いんです」
 小倉は言った。
「トイレに行かせてください」
「少しだけ、がまんしてください。すぐ終ります」
 落ち着き払った声で、沖本が言った。小倉は沖本の手をふりほどこうとしたが、小倉よりも小さくて細い相手は見た目よりもずっと力が強く、微動だにしなかった。
「でも、吐きそうなんです。お願いです、放してください」
 哀願するように言った。体の中心部から熱いものがせり上がってくる。
「大丈夫です」
 大丈夫なもんか。
 小倉は必死でもがいた。だが沖本は手を緩めない。ついに口から何かがあふれてきた。誰かが叫んでいる、と小倉は思った。だがあふれてきたのは自分自身の叫び声だった。とても耐えられないような罪悪感が襲ってきた。そして身を焦がされるような羞恥心、恥ずかしさで体が焼けてしまうような感覚。死にたい、死んだほうがましだ、と小倉は思った。

 小倉さん、小倉さん、という沖本の声がどこか遠くで聞こえる。
 だめだ、耐えられない。
 とても耐えられない。
 大勢の前で、一人だけ素裸で立っているような、でもそれよりも百倍も千倍も恥ずかしい。こんな思いをするくらいなら、いっそ殺してくれ。
 
 うわあああ、と叫びながら、小倉は全力で体をよじって沖本の腕をすり抜け、両手を床についてはいつくばった。叫び声は際限なくあふれ続け、やがて泣き声に変わる。自分が泣いている、という自覚はなかった。ただ磨かれたフローリングの床を、汗と涙とよだれと鼻水が濡らす。沖本が背後から途轍もない力で支えていなければ、おそらく床をころげまわっているのではないかと思う。
 
 そのままどれくらいの時間泣き続けたのかはわからない。
 通常泣くという行為にともなう悲しさ、くやしさ、うれしさ、感動といったような感情は何もなかった。ただ物理的に体の中の多すぎる水分をひたすら汲み上げて捨てているという感覚だった。
 余計なものが出て行くにつれ、どんどん体が軽く、楽になっていく。やがて徐々に嗚咽が止まり、体を起こして立ち上がったときには、スッキリとして実際に体重が一キロくらいは軽くなった気がした。心も晴れ晴れとして、歌でも歌いだしそうな気分だった。 

 沖本はと見ると、先ほどまで想像もつかない怪力で小倉を押さえつけていたのがうそのように、子供用の椅子にこじんまりとすわって微笑んでいる。
「ひどいなあ」
 小倉は言い、急におかしくなって立ったまま笑いだした。
「何するんですか、沖本さん」
 沖本を責める言葉をさらに言い募ろうとしたが、笑いが止まらなくて言葉にならない。
 沖本の困ったような顔も、子供椅子にちょこんとすわっている姿も、カウンターの上のぬいぐるみの顔や、ポスターに描かれたイラストの人物のアンバランスな体型も、何を見てもおかしくてたまらず、あまりにおかしいので立っていられなくなり、ひざを手に当てて前かがみになり、ずっとずっと笑い続けた。
 笑いが止まると、今度は言葉の奔流が押し寄せた。小倉は部屋を歩き回りながら、内側から自分の意志とは無関係に、絶え間なく流れ出す言葉を聞いていた。内容はほとんど認識できず、ただ自分がしゃべっていると同時に聞いているという感覚だけがあった。断片的に、「ハムスター」「ノルマ」「パニック」などという単語を口にしたことは覚えていた。
 それから突然、空白がやってきた。

 最後の単語が口から出て行ったあと、文字通り、心が空っぽになった。
しんと静まりかえり、何も動くものはない。
 何の思考も、思考を形作る言葉も生まれてこない。
 沖本は何も見ていないようで何もかも見透かしているような不思議な目をして小倉を見ていた。その目を見つめているうちに、小倉は自分の中に広大な、無限とも思える空間があるのを発見した。何も動かない、何も起こらない、何も生まれない安らかな空間に、自分自身が赤ん坊のように安心してくつろいでいるのを感じた。

 すべてが終ったとき、小倉にはそれが終わりだとわかった。
 静かな至福感が体中を満たしていた。

 我に返ると、小倉は何もなかったように子供用の椅子にすわって沖本と向かい合っていた。あれだけのことがあったにも係わらず、二人とも服に乱れはなかったし、さっき小倉が涙とよだれでぺとぺとにしたはずの床にはその痕跡もない。
 それでも体全体に残る、全力疾走した後のような心地よい疲労感と、これさえあればほかにもう何も望むものはないと思えるほどの心の安らかさが、確かに何かが起こったのだと小倉に知らせていた。
「これが、ハグですか」
 小倉は言った。
「そのようですね」
「みんな、こんななんですか?」
 ほかに言い方がみつからなかった。
 沖本は微笑んだ。
「いいえ、こんなのは初めてです。大抵の人はもっと、ずっとおだやかです」それから少し間を置いて、「小倉さんをハグするのはもうごめんです」と言った。
「すみません」
あわてて謝ると、ハガーは声をたてて笑った。
「冗談ですよ。ハグ・セッションは一生に一度だけで、同じ人が二度受けることはできません」
「え? そうなんですか」
「それに、今まで二百人近くにセッションしてきた中には、くわしくは言えませんけれど、もっとずっと激しい反応をする人もいました。私自身、身の危険を感じることもあります」
「それは事前に、その人を見てある程度予測できるんですか?」
「いいえ、見た目からはまったく予想がつきません」
「沖本さんは、恐くはないんですか? ――その、セッションのときに何が起こるかわからないってことが」
「何が起こるか、どうしたらいいかがわかっていなければならない、と思うと恐いです。わからなくても大丈夫なんだと、経験を積んでわかってくると、恐くなくなります。そうすれば恐怖に身がすくんだり、思考力がフリーズしたりしなくなるので、そのとき自分にできることをただ全力でできます」
「僕には、すごくヘビーな行為に思えますけど」
小倉はため息をついた。
「だから、支える人が必要なんです」

 沖本の口調に力がこもった。
「私は今まで主にアメリカで活動していました。あちらではハガー一人に四人から五人のホルダーがいて、支えるシステムが確立しています。だから何があっても、安心して活動することができます。でも日本支部は立ち上げて間もないので、まだホルダーがいないんです。ハグがこれから広まっていくためには、ハガーをメンタル面で支える人たちの確保と養成が最優先なのではないかと私は思っています」
「なぜ、僕なんでしょう。僕は会社をやめて二年も家に引きこもっていましたし、今でも電車やバスや閉鎖空間が苦手です。デレクと永野さんは、僕の何がその――ホルダー、ですか? それにふさわしいと思ったんでしょう」
「痛みを知らない人に、人を支えることはできません」
 沖本は静かに言った。
「アメリカのホルダーたちはほとんどが何等かの理由で家や施設から出られない人たちです。体が不自由な人もいますし、末期の難病を患っていたり、心の病だったり、何かの恐怖症だったり。今までは社会にとって非生産的と位置付けられていたそうした人々が、実は一番根本のところ、人類の精神的な進化という側面でこの世を支えているファクターだったのだと、一部の人がやっと気づき始めたんです。小倉さん、あなたもですよ」
 沖本は心に染み入るような優しい微笑を浮かべた。
「それに――ハガーは孤独です。私たちは特定のパートナーと交際することはできないし、家族を持つことも、ペットを飼うこともできません」
「ペットも!? どうしてですか。禁じられているんですか」
「もちろん、禁じられてはいません。各自が自主的にそうしています。どういうわけだか特定の相手と親密な関係を持つことで、ハガーとしての能力が阻害されるようなんです。くわしくは解明されていませんが、今までのデータからそういう分析結果が出ています。その結果、パートナーができたり、子供を持ったりすると必然的にハガーをやめなければならなくなるんです。裏を返せば、優秀で熱心なハガーほど、一人ぼっちだということです。だからこそ、ホルダーの存在が重要になってくるんです」

 優秀で熱心なハガーほど、一人ぼっち、か。

 小倉は改めて、ホールの入り口で永野と談笑している沖本の、不安になるほどに透き通った表情を見た。
 小倉は西野裕子のことを思い浮かべた。沖本が伴侶を得たのは結局、自分の命が尽きる直前だった。裕子も今のままではそうなる可能性が高い。でもそれで、本当にいいのだろうか? ホルダーである自分にとって、ハガーである裕子は支え、見守っていくべき対象でしかないとわかっている。それでも小倉の中で彼女はすでに、それ以上の存在になっている。自分が彼女に望んでいるのは一体何なのだろう。

 さっき受付を交代してもらった女性スタッフが、「後半どうします?」と聞いてくる。
「ごめん、後半も中、頼むわ」と答えると、「ええんですか? めっちゃうれしい。沖本さんのデモが見られるなんて、こんなチャンス滅多にないし」とはしゃいだ顔になった。
「せやな。しっかり見ておくといいよ」
 たぶんこれが最初で最後のチャンスだから。
 心の中で付け加え、時計を見る。
二部の開始時間がせまっていた。小倉は立ち上がって、ロビーで話している参加者によびかけた。
「そろそろ二部の開始です。みなさん、会場にお戻りください」
 振り返ると沖本が、扉の中に消えるところだった。沖本が小倉に向かって、儀式めいたしぐさで手を上げてみせる。小倉はうなずき、それから深く頭を下げた。(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?