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長編連載小説 Huggers(60)


沢渡は最後に裕子にあるお願いをする。

沢渡 10(つづき)


「僕は、神を呪って、悪態をつきました。それから体中の水分がなくなるかと思うくらい泣いて泣いて、そしていつのまにか寝ていました。玄関ですわったまま。目が覚めたとき、立ち上がろうとして、びんを蹴とばしたんです。義母が、僕にもたせてくれた、梅の実の醤油漬けが入った透明なガラスびんでした。廊下を転がっていって止まったびんに、カーテンのすきまからもれてくる外の明かりが当たって、光るのが見えました。濡れてるみたいに。とても、きれいだと思いました。それを見て、また泣きました。今度は自分がかわいそうだからとか、みじめだからとかでなく、ただそのびんがあんまりきれいだったので。何かが美しいから泣くなんて、生まれて初めてでした」
 裕子は何度もうなずいた。
「それから何かが変わり出したんです。職場で妻の家出をカミングアウトしたらすごく気が楽になりました。苦手だった同僚と腹を割って話せるようになったり。僕の顔を見たくないと言ったお客さんは、自分からわざわざ謝りに来ました。その人、そんなことする人じゃなかったのに。それから、ずっと疎遠だった、おばや従姉妹とも、墓参りに一緒に行きました。初めて、心が通った気がしました」
 沢渡はそう言ってから、湯飲みに手を伸ばし、少しぬるくなった緑茶を飲んだ。ちょうと手のひらにすっぽりとはまる湯飲みの大きさと、なめらかな感触を心地よく感じた。
「そのころ、ハガー協会のことを知ったんです。自分に起こった変化を不思議に感じて、あなたの言ってたハガーというキーワードで、ネット検索していて見つけました。ところが、読んでいくうちに急に腹が立ってきて。あなたが僕に無断でハグをしたんじゃないかと――それで、確かめるために、ここに伺いました」
「ごめんなさい」
「あのときは、すごく腹が立ちました。だまされたと思いました。洗脳されたと。本気で、訴えようかと思いました――だけど冷静になってみると、やっぱり、どう考えても僕は楽になってるんです。生きることが、前より」そして沢渡は自分でも驚いたことに、裕子に向かって微笑んだ。
「魂とか心とかの話、僕は大嫌いでした。そういう話をされると、落ち着かなくなるんです。なんだか不安になるんです。契約書とか、手数料とか条件とか、そういう言葉を聞いていうほうがよほど楽なんです。私どもとか御社とか先方とか、そういう言葉づかいをしているとほっとするんです。もちろん、物質的な世界にもリスクはあります。でもそうしたリスクは、しょせん、金銭とか、数字で測れる範囲です。どれだけ愛したとか、どれだけ傷ついたとか、そういうはっきりした基準のない話をされるより、よほどましだと思っていました。だから妻にそういう話をされると、僕はとても冷たい態度をとっていました」
 詩帆の悲しそうな顔を思い出し、ひざの上においた両手をこぶしにして握りしめた。
「でも、だんだんわかってきたんです。仕事でも、職場の人間関係でも、家族でも。表面的な数字や、言葉のやりとりの向こうに在るのは、人の気持ちなんだってことが。すべてにおいて、たとえば仕事のうえの駆け引きでも、最終的には誠実であること、誠実でありつづけることが、何よりも人を動かし、それ以上に自分も幸せにするんだってことが」
「はい」と微かな声で言った裕子の目に、涙が浮かんでいるのが見えた。
「この前、あなた言いましたよね。妻は僕を愛してるって」
「はい、言いました」
「そう言われたとき、僕怒りましたけど、でも心のどこかで、それを信じました。いや、信じたというより、それを知っていると思いました。どうやってかはわからないけど、僕はそれを確かに知っていました、ここで」沢渡は自分の心臓のあたりを指でさし、とんとんとたたいた。
 裕子の目から涙があふれて零れ落ちた。
「僕、アメリカまで、妻を探しに行こうとしたんです。でもやめました。たとえ見つかったとしても、無理に連れ戻すのでは意味がないと気付いたんです。僕は待ちます。妻が帰ってきても、来なくても、僕は待ちます。そう決めました。そしたらとても平和な気持ちになって。なんだかおかしくなりました。結局、僕は――あなたの、あなたたちの思惑通りになったんですね」
 そして沢渡はまた微笑み、ふと目を上げて、部屋を見回した。
 そして、ハガー協会の認定書がなくなっているのに気づいた。
「ああ、私、もうハガーはやめました」
 その視線に気づいて振り返った裕子は言った。
「やめた?」
「ええ、いろいろあって。それでここを引っ越すことにしたんです」
「そう、なんですか」
「はい。病院もやめて、一度実家に戻ることにしました」
「いろいろ、あったんですね」
「はい」
 事情を聞きたい気も微かにしたが、自分にはもう関わりのないことだという気もした。
「とにかく一言、お礼を言いたくて。あなたが引っ越してしまう前に。それで伺いました」その後、言うべきことがなくなったのに気づいて、沢渡はもう一度湯飲みを手に取った。
「きれいな湯飲みですね」
「ありがとうございます。これね、どうっていうことない小さな古いお店で見つけたんですけど、なんだか色やかたちや、触った感じがすごく好きで。なんていうか、いとおしい感じがして、思わず買っちゃったんです」
 裕子は少し恥ずかしそうに微笑んだ。沢渡はふと、彼女の自然な笑顔を見たのは初めてだなと思った。


 玄関で靴をはこうとすると、裕子が後ろから「どうぞ」と靴べらを差し出した。
「あの、もうひとつだけお願いがあるんですけど」
 靴べらを返しながら、沢渡は言った。
「はい」
「僕、今度、フリーハグっていうのをやってみたいと思っているんです」
「フリーハグ? ああ、あのボードを持って街角に立ってやる、あれですか?」
「ええ――なんか、やってみたくなって」
「いいですね。いいと思いますよ」裕子はまた微笑んだ。
「一人目になってもらえませんか?」
「え?」裕子の目がまん丸くなった。
「決めたのはいいんですけど、なんだか勇気が出なくて。最初の一人になってもらえませんか」
 裕子は黙っていた。
「お願いします」
 相手の目を見る事ができず、意気地なく床に視線を落として、沢渡は言った。
「だめですよ、全然」
 と言った裕子の声が笑っていた。
 顔を上げると、裕子は眉根をよせて、どうしようもないわね、という表情をしていた。
「それじゃ誰も来ませんよ。ちゃんと前を向いて、大きく両手を広げなきゃ」
 言われて、意を決して顔を上げ、両手大きくを広げると、裕子も両手を広げ、ふわっと軽く沢渡の身体にまわし、わずかに力を入れた。上半身だけ合わせてそっとハグを返すと、ほのかにシャンプーの香りがした。裕子は3秒ほどじっとしていた後、身体をはなし、何も言わず沢渡の後ろに回ってドアをあけ、彼をドアから押し出した。
 さよならをいうタイミングを失って、閉じられたドアの前にぼんやりと立ち尽くす沢渡の耳に、裕子が声を殺して泣いているのが、薄っぺらいドアの向こうから微かに聞こえてきた。

                (つづく)

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