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長編連載小説 Huggers(63)

永野は裕子に頭を下げる。

裕子 10(つづき)


「これ、おとぎ話だと思って、聞いてくださいね。僕もそのつもりで話しますから」
永野は以前スカイプで話すときによくしていたように、パイプ椅子の背もたれにぐっと背中を預け、胸の前で、両手を組み合わせて微笑んだ。

「もう、10年以上前の話になりますがね。僕は、アメリカ中西部のある田舎町に住んでいました。先日亡くなった、ハガー協会の代表と、数人のごく親しい仲間と共同生活をしていました」
「永野さんは、代表にお会いになったことはないとずっと言ってらっしゃいましたけど、ではあれは」
「ええ、ウソです」永野はいたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「ハガー協会なんてものができる、ずっと前の話です。当時、代表はまだ自分の力を自覚されていなくて、それで、私達は代表を守るようにひっそり暮らしていました。家族のようにね。力が知られると、利用される恐れがあったからです」
 情景を思い浮かべるようにゆっくりと、なつかしそうな顔で、永野は言った
「何とも幸せな日々でした。代表は美しくて清らかで、地上のものとは思えませんでした。みんなが代表に恋をしていました」
「素敵な女性だったんですね」
「女性? ああ」永野は笑った。
「いいえ、代表は男性ですよ。男の子というべきか。享年16歳でした。――死刑判決を受けた母親が刑務所で生んだ赤ちゃんを、その母親の友人だった女性が引き取ったのですが、初めてその子を抱いたときから尋常でない至福感があったと言っていました。この赤ちゃんはただものではないと感じた彼女が、信頼できる仲間といっしょに育て始めたのです。私がある御縁でそこに加わったころは5歳になったばかりでした」
「16歳――子ども、だったんですか」裕子はため息をついた。
「まあ、ふつうの子どもではなかったですけどね。とにかくそうして守られて育ちました。私達はあの方のそばにいるだけで幸せでした。彼の声を聞き、歩くのを見るだけで、微笑まずにいられないのです。彼を知っているだけで、世界中を愛せると思うくらいでしたよ」
永野は夢を見るようなまなざしをしていた。
「代表は9歳のころ、自分の力に気づき、それにともなって覚醒も起こりました。そしてネットを使ってさまざまなことを自分で始められたんです。まもなくボストンに本拠地を置くハガー協会が組織化され、静かに世界に広がっていきました。そのころ、代表は言いました。もうすぐ地上の秩序が変わる。地球全体の気候が変わり、災害が起こり、政変や革命が起こる。先進国でも政情不安や金融の混乱が人心を乱す、と。でもそれは恐るるに足らない。新しい時代が来るために必要なことなのだと」
 裕子はいつか、伝授の前に沖本から似たような話を聞いたことを思い出した。
「旧体制の崩壊……秩序の破壊……システムの解体……ですか」
「おや」永野は嬉しそうに言った。
「西野さんの本質をつかむ能力。本領発揮ですね。ありがたい、話が早い」
「沖本さんの受け売りです。新しいものが生まれるためには、古いものが壊されなければならないと」
「その通りです。代表はその一時的なカオスのなかで、揺らぐことのない柱としてまっすぐに立つ者たちが必要だと言われました。そして、共同体のなかから数人のものたちが選ばれ、特別なハグを受けてアウェイクンドになりました。そのなかにデレクや沖本さんもいました。彼らが世界じゅうに散って、ハガー協会の柱になりました」
 永野は裕子に向かって微笑んだ。
「あなたは選ばれなかったんですか?」
「選ばれました。でも断ったんです」
「断った? なぜ」 
「なぜか、と問われると、いまだにわからないと答えるしかありません」  
 永野は言い、虚空をにらんでしばらく黙っていた。
「選ばれて天にものぼるほどうれしかったし、死んでもいいとおもうくらい、ハグを受けたかった。でも、なぜかわかっていたんです。自分には別の役目があると。アウェイクンドが光だとしたら、闇を引き受ける者が存在しなければならない。すべてが一つのままでは、変容は起こりません。次元が変わるためには分離が必要で、分離するためには二つの極が必要です。北と南、左と右、黒と白。誰かが向こう側に行かなければならなかったんです」
「それがあなただったんですね」
「ええ」
「では、もしかして、最初からわかってたんですか? 日本でハガー協会を作ったときから、こうなることを。一連の流れとして?」
「いいえ」永野は笑った。
「もし知っていたら、こんな大変なこと、できませんでしたよ。ええ、まさか。ばかばかしくて、やってられません。それがどういうふうに、いつ、誰に起こるかは、まったくわかりませんでした。予想もつきませんでした。だから私は常に全力で、自分のできることをやってきました。目の前の人の幸福のために自分のできることを、精いっぱい。西野さんや小倉さんや、ミアや、スタッフや、みなさんに、こんなつらい思いをさせるとわかっていたら、もし知っていたら、僕には決してできませんでした。とても耐えられませんでした――だって僕は、あなたたちみんなを、とっても大切に思ってましたから。心から」
 永野は姿勢をただし、裕子に向かって頭を下げた。
「こんなことになって、申し訳ありませんでした」
「代表は――ご存じだったんでしょうか、何が起こるのか」
「ぼんやりとは、感じていたかもしれません。でも代表も、自分は何も知らないとおっしゃってました。すべては『それ』itーーから自然に起こってくることだから、と」
「『それ』って、よく永野さんおっしゃいますよね。気になってたんです。神様みたいなものですか?」
「天、神、仏、存在、愛、全体、純粋意識、源、無、空――呼び名は数限りなくあります」
 永野は言った。
「でも呼び名はどうでもいいんです。私には『それ』という名がしっくりきます。それは、私自身でもあり、あなたでもあり、今この瞬間、私が生きていることを可能にしているもの、私とあなたがここで話していることを許しているもの、常にすべての存在を支えているものです」
 裕子はさらに長い説明を期待していたが、永野はそれきり黙ってしまった。
 永野に会ったら聞きたいこと、問いただしたいことがたくさんあったはずなのに、なぜか何一つ思い出せなくなっていた。それでふと思いついたことを口にした。
「代表はどうして亡くなったんですか? まだ16歳だったんでしょう?」
「生まれつき体が弱かったんです。それから、さっき申し上げた特別なハグは、体力と気力を極度に消耗するものだったようです。これはあとから知ったことですが。わかっていたら、止めていました」永野は声をつまらせた。
「永野さんは、その人を、本当に大切に思っていたんですね」 
 裕子が言うと、永野は顔をひきつらせ、涙をうかべて微笑んだ。
(つづく)


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