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長編連載小説 Huggers(59)

沢渡は、ふたたび裕子をたずねる。

沢渡  10

 久しぶりに土日が連休になり、のんびりと過ごしてから出勤すると、日曜出勤だった桐尾から、辻のアパートの賃借人が来て、五月が更新月なので、来月、四月いっぱいで退去したいと手続きをすませていった旨の報告があった。
「誰?」
何気なく聞いた。
「えーと、誰だっけ。2階の人です、地味な感じの女の人。確か……」
 ドキッとした。
「西野さん?」 
「あ、そうですそうです、西野さん」
「そうなんだ。何か理由は言ってた?」
「いや、別に。あんまりいろいろ聞かれたくなさそうだったので、必要以外のことは話しませんでした」
 去年の11月に、1か月以内に退去してもらうと捨てぜりふを言ったが、その後アクションを起こす気になれず、そのままにしていたので、ずっと心に引っかかっていた。先方から退去を申し出てきたのであれば、角も立たずありがたい話だった。
 会話はそれで終わり、手続きの書類を確認したが特に問題はなく、その件は沢渡のなかでいったん消化されたように思われた。 

 その日の仕事が終わって帰ろうとしていると、店の奥にある社長の自宅のドアから、長谷川家の末っ子の将太が飛び出してきた。3歳になりすっかりおしゃべりになった将太は沢渡と目が合うと「お、サワタリ」と言うなり、戦闘物のテレビだかゲームだかに出てくるカタカナの技の名前を叫びながら、まっすぐに突進してきた。走ってくる将太を見ながら、沢渡はうまく特定できない不思議な感情が自分のなかから湧き上がってくるのを感じた。それを感情と呼んでいいのかどうかさえ自信が持てなかった。彼が39年間味わったことのある、どの感情とも違うものだという気がした。
 なんだろう? これは。
 めちゃくちゃに繰り出してくる将太のパンチを受け止めながら、沢渡は記憶をたどった。
 心のどこかが破けてしまったような、わけもなく泣きたくなるようなこの切なさは。

 インターホン越しに「長谷川不動産の沢渡です」と名乗ると、しばらく間があった。
「あの、なんでしょう。来月、引っ越ししますけど」
 明らかに困惑している声だった。
「実はですね、きのう書いていただいた退去の書類にちょっと不備がありまして。ご印鑑をいただきたいところがあるのですが」
 ドアが細くあいて、裕子が顔を出した。
 風呂上りなのだろうか、髪が少し濡れている。だぼっとしたTシャツに、下はジャージという格好だ。
 一瞬、別人か、という考えが頭をかすめた。いや、11月に会ったときにショートだった髪はセミロングといえるくらいに伸びているが、確かに西野裕子だ。だが、美しいと感じた。
「あの、ごめんなさい。もう遅いので、明日にしていただけませんか」
 ぼーっと立っている沢渡に不安を感じたのか、裕子はドアを閉めそうになる。
「待ってください」思わずドアの隙間に手をさしこんで押し開けた。裕子はびっくりして身を引いた。そのとき、沢渡は突然気が付いた。
 裕子が変わったのではない。自分が変わったのだ。
 夜空を見上げたとき、目が慣れるにつれてたくさんの星が見えてくるように、自分はやっと裕子の姿をちゃんと見ることができるようになったのだと。 
「驚かせてすみません――印鑑の話は嘘です」
 沢渡は言った。
「引っ越される前に、もう一度お聞きしたかったんです。あの――あなたのやっていらっしゃる、活動の話を」
 裕子は驚いた顔をした。
「ハグの話ですか? 私はてっきり、沢渡さんは怒ってらっしゃるのかと」
 沢渡は頭を振った。
「いえ。ご迷惑と思いますが、少しだけ、お話しできませんか? ここでけっこうです」
 裕子は少しの間ためらってから、10分だけ待ってください、と言ってドアを閉めた。次にドアが開いたとき、彼女は新しいTシャツとジーンズに着替え、髪はうしろにゆるくまとめてアップにしていた。
「どうぞ」
「あの、ここで大丈夫です」
「いえ、どうぞ中へ。人目もあるし、私も寒いですから」
 奥の和室のこたつに案内された。裕子と向かい合ってすわるのは三回目だ。だがこんなに穏やかな気持ちでいるのは初めてだった。裕子は緑茶を小ぶりな湯飲み茶碗に入れて沢渡の前に置いた。
「それで、お話というのは?」

「その前に、僕、謝らなければなりません。この前はすみませんでした。失礼なことを言ってしまいました。出て行ってもらうとか何とか、怒鳴り散らして」
 裕子は戸惑った表情で沢渡を見た。
「いえ、謝らなければならないのは私です。奥様のことを引き合いに出して。あなたがお怒りになるのは当然です」
「妻のこと、ちゃんとお話したことなかったんですが」沢渡はふと姿勢を正した。
「おととしの夏に、出て行ってしまったんです」
 それから視線を落とし、目の前の湯飲みを見た。小ぶりで、きれいな薄い水色をしている。
「突然だったので、理由もよくわからなくて、僕はとても悩みました。あなたに初めて会ったのは、いちばん苦しかった頃でした」
 裕子はうなずいた。
「あのとき、あなたに――その、ハグをされて。そのあと、いろいろなことが起こりはじめたんです。ほんとうにいろいろなことが。……とても話しきれません」
「ええ、わかります」小さな声で、裕子は言った。
「長いことかかって、信頼関係を築いてきた大事なお客さんがいたんです。僕の小さなミスをきっかけにある日とつぜん、その人から『君の顔を見たくない』と言われました。妻からは、離婚届が送られてきました。妻の家族は、僕に居所を教えてくれませんでした。上司からも同僚からも見放されたような気がしました。ある夜、もう、生きていても仕方ないなと思ったんです。誰も僕を必要としていないし、愛してもいない。死んだほうがましだと」
 沢渡は目を上げて裕子を見た。
 裕子の目には同情や憐みの表情はなく、ただ近しさとか親しみと呼びたくなるような懐かしい何かがあった。
(つづく)

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