たぶん引っ越さない

シマ:7月31日

最近引越しを考えていて就寝前にスマホのお部屋さがしアプリで、だらだらと物件を眺めることが習慣化している。
引越し理由は幾つかあり、新居に求める条件も様々だが、最も重要視しているポイントが「広さ」である。
希望の広さと予算にはまる物件はなかなか見つからず、広さも予算もクリアするには、今住んでる街を離れなければならないという事がわかった。
住み慣れた街を離れる事が現実味を帯びてくると、街での思い出が一気に押し寄せて、スマホをスクロールする指はだんだんと遅くなり、目を瞑り感慨に浸りそのまま寝てしまう。
そのような事を繰り返しているから、お部屋探しは一向に捗らない。
引越し先が決まる気配はさらさらないのだが「この街を、この部屋を、とうとう離れるかもしれない」というエモーショナルだけが先行し、“もうすぐ引っ越すかもしれない人”として生活を送っている。
もうすぐ引っ越すかもしれないとなると、家の嫌いだった部分が途端にチャームポイントのように見え始め、急な階段も、狭い玄関も、その全てが愛おしく感じる。「この浴槽にお湯を張るのもあと僅かか。」「とうとうシンクにちょうど合うサイズの水切りラックを見つけられなかった。」と、最後の夏を過ごす高校球児のような気持ちで生活している。
エモーショナル生活は家の中だけでなく、街でもだ。
街でもだ。と書いたが街の方がひどい。
特に散歩が危険で、見慣れていたはずの街並みが何倍にも解像度が上がって見える。初めてコンタクトを付けて瞼を開けたあの瞬間のように、目の前の風景が、街が、店が、全てがキラキラと映ってしまうのだ。
それはサイゼリヤでさえもそうで、立ち止まり、「このサイゼリヤには行ったことがあったっけ?オープンして間もない頃に一回行ったか。たしかマグナムボトルを頼んで楽しかったな。」などと思い「このまま引っ越したら、なんであのサイゼリヤをもっと利用しなかったんだ!と、きっと悔やむんだろうな。」と、わざわざ未来に先回りまでして後悔したりする。そんな調子で十メートル先にある銀だこでも同じような事を思う。
牛歩のような散歩となり、復路の頃には店のほとんどが「俺のサイゼリヤ」「俺のキャンドゥ」「俺の山本のハンバーグ」という具合になり帰宅するのである。

「俺の桜」を切り倒されてしまったサトシはさぞ悲しかっただろうなと思う。

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