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【雑記】「涼宮ハルヒの消失」の感想の整理と感情についての話

前回、この「雑記」とやらを読んだ方からすると、第二弾でこんなふうなオタク趣味を全開にしている文章が展開されようとしているタイトルを目にして、ひどく落胆したかもしれない。「なんだ。将来に投資しようと暗号通貨の勉強に勤しむ、カシコイのかダマされやすいのかよく分からん人」だと思っていたのが、完全に見当違いなことを抜かし始めたと思うかもしれない。だが、残念なことにどちらの私も私である。私以外私じゃないの、当たり前だけどね、だから、とりあえず書く。

絶対に読まなくていいシリーズを、しかもこれほどまで早いスパンで書くことになるとは自分でも思っていなかった。しかし、映画の感想もロクに書いていない、否、書けないから、自分の感情を整理するためには、書かずにはいられない。そうしないと、今の私の心内で蠢いている謎の塊のようなものを、しっかりと片付けることができないのだ。


・タイトルでだいたい察しがつくとは思うが、「涼宮ハルヒの消失」を観終えた。それだけでなく、その前段階に手始めとして、コロナの療養期間という大々的な休みを利用して、「涼宮ハルヒの憂鬱」の視聴を完了させることに成功した。アニメ本編について口出ししたい部分もいささかあるのだが、ここではあえて触れないでおく。とにかく今は、私の感情、そして、作中の人物の感情について整理しなければ、狂ってしまうかもしれないという自負がある。私の感情といえば、もうすでにぐちゃぐちゃの状態である。そこに至るまでの経緯を、できる限り私の感情を操作し得るシーンをピックアップして取り上げながら、整理する必要がある。

まず、ここまでの文章を読んで「続きも読みます」という意思を持った人は、アニメ本編の視聴を通して、私が長門有希というキャラクターを心底愛しているということを念頭においた上で、読み進められねばならない。タイトルに「涼宮ハルヒ」とついているからと言って、この文章中で取り上げるのが彼女のことを中心にしているとは限らないからだ。否、中心にしていると限らないのではなく、中心にしていない。私の感情の九割は、長門有希という存在によってぐちゃぐちゃに掻き乱されたからだ。

理由は、「映画の視聴後にも涙が止まらない」という、私が初めて経験する現象が起きたからだ。ここまで自分では制御できないというのは、本当に初めてだ。その時私の脳内には、決まって大好きな長門有希というキャラクターが思い浮かべられていた。どう考えても、私の脳内が長門有希に占領されていることだけは明白であった。


長門有希が私の感情に干渉している理由の一つに「報われなさ」があると思われる。これはかなり包括的な意味での「報われなさ」だから、説明の余地がとてつもなく残されている。この説明をするにはまず、作り変えられた後の世界においての長門有希がキョンに恋愛感情、もしくはそれに限りない感情を持っている、ということを仮定しておく必要がある。

私がわざわざ「仮定しておく」としているのは、この作品に対して「ただの恋愛映画として処理するな!もっと深い意味があるんだ!」としている過激派が一定数いることを加味しての、とても優しい表記である。意見は人それぞれだから、それは仕方ないことだ。


私と深い交流を持っている、もしくは日記で目にした(自分で書いた記憶はない)人なら知っているかもしれないが、いわゆる「ラブコメ」ジャンルに分類される作品は、ドラマ・アニメなど問わず、全体的に苦手なのである。最近に至るまで涼宮ハルヒシリーズを敬遠していたのも、その辺が含まれるということをどこかしらで伺ったからであった。観終わってみれば、全然そんなこともないし、名作と言われ続ける理由がわかる素晴らしい作品だったのだが。

だが、今作に関しては「ラブコメ」ではないものの、少なくとも「恋愛」のジャンルは含まれているのだという感は予告で察したので、少し身構えて観たのだ。その結果、私がそのような色恋沙汰を避けてきた所以たる真相がだんだん見えてきた。そのカギをにぎるものこそが「感情」である。この場合の「感情」は、出演キャラクターのものも指すし、観ている私のものも指す。今作は、全てを含めた「感情」の、一言では言い表せない変動が2時間40分に凝縮されることによって、このような素晴らしい作品に仕上がったのだろうと思う。

登場人物における「感情」については、主に長門有希のものを指す。これまでのアニメシリーズでは、あまり感情を表に出さない、無口キャラとして位置付けられていた。この性格について私は、宇宙人やひいてはアンドロイドという設定だからなのか、と思っていたが、今作を観て絶対に違うという確信を得た。作り変えられた世界、つまり我々が生きている現実と似たような世界において、長門有希は東高のいち生徒として存在していたのだ。しかも、以前の長門有希の性格とは異なり、感情も表に出せば、しっかりと口も効くようになっている。この現象を、SOS団が存在した改変前の世界の上で考え直してみると、元来長門有希は宇宙人などではなく、ごくごく普通の一般人だったのだ。それが、本人が認知できないうちに性格どころか身体の構造も改変されてしまった。本来は表に出ていた感情も、無口キャラの構成のために奥底にしまわされてしまったのだ。改変後の世界、我々のいる世界と同じような世界にいた長門有希がキョンに向けていた感情も、知らぬ間に押し込められてしまった。

私は今、あえて感情が「なくなった」とは表現せずに、「奥にしまわされた」とか「押し込められた」と記した。アニメ本編・今作序盤において、長門有希が変わった、表情豊かになってきたなどと古泉一樹によって語られていたが、私は今作のストーリー全体を通したうえで、元来の長門有希、涼宮ハルヒによって周囲が改変されない世界、つまりは、周囲を改変する能力を持った個体という意味での涼宮ハルヒが消失した世界に存在していた長門有希に、徐々に戻って行っていたのではないかと感じた。それをも長門有希自身が予測していたかは分からないが、涼宮ハルヒが消失する前触れを示していたように思えたのだ。

そのような力を利用(この辺りはちゃんとは理解できていないから、若干の齟齬が生まれているかもしれない)してまで、身を挺して、キョンが望んだ世界を作り上げたのだ。しかも、キョンによる最終決定権つきで。その世界の中で、長門は必死に自分の心中を、ありったけ自分ができる不器用な方法で行動に移したのだ。そこに、あの計算高い宇宙人の長門有希の姿はない。ただ、図書館で困っていた自分を見ず知らずの男が助けてくれた、その人が東高の制服を着ていたからもしかすると会えるかもしれないと思っていた、ひょんなことからその人が一人ぼっちの部室に入り込んできた。そこに涼宮ハルヒはいないから、当たり前のように長門有希とは関係も接点もない。その世界でキョンを認識したまま改変されてしまった人物は、涼宮ハルヒと長門有希しかいない。そのうち、思考の中にキョンを存在させたまま東高に存在したのは、まぎれもなく長門有希しかいないはずなのだ。

情報思念体には、改変前と改変後、その両方の記憶を持ったままにできる能力もあるのかは不明だが、それがなくとも奥底に秘めたキョンへの感情が残っていることは確かだ。でないと、改変前の世界で長門有希が改変を行なった意味が全く分からなくなってしまう。すなわち、涼宮ハルヒが東高に存在する場合には監視の役目が取り付けられるが、涼宮ハルヒが存在しない東高に、長門有希が課せられた任務などはないのだ。彼女はただの女子高生なのだから。

作中でキョンは、長門が何とかしてくれると思っている自分がいた、という旨の発言をしている。知らずのうちに面倒ごとを課され、振り回され続けていたのはキョンだけではなく、長門有希もそうだったのだ。表情の出ない顔でまっすぐ見つめる、その瞳の奥には、世界が変わっても一人を想い続ける情念のようなものがあったのではないだろうか。

だが、その思いは届かなかった。キョンは、世界を改変する力を持つ涼宮ハルヒのいる世界を選んだ。長門有希は、賭けていたのかもしれない・もしかしたら彼なら、プログラムを作動させずにこの場に留まるという選択をするかもしれない、と。しかし、キョンは彼女個人ではなく、SOS団の仲間を選んだ。いや、涼宮ハルヒを選んだといった方がいい。決死の想いでつかんだ制服の袖は知らないところへ消えてしまい、また彼が現れたかと思えば、それはもう叶わないものになっていたのだ。手が届く距離にいるのに、触れられない。たとえ世界が変わっても、彼は涼宮ハルヒを選ぶ。もうずいぶん昔から決まっていたことなのかもしれない。


ここでようやく、私の「感情」の話になるが、これは説明のしようがない。私の気持ちを説明する言葉が、この世界に存在しないからだ。切ない、だけでは足りないし、悲しいでもない。つらいと言えばつらいがそればかりでもない。だから私には結局、このようなシーンが私の感情をめちゃくちゃにかき混ぜた、と提示することしかできない。だが、それを提示した所で私の感情が収まることはないだろう。

袖をつかむシーンはもちろんだが、それも改札を通り抜けるシーンは、思い出しただけでもつらい。意味合いは多少違えど、エヴァンゲリオンの碇シンジと碇ゲンドウを髣髴とさせた。彼は、自分を置いていくのだ。これまでも、これからも、またずっと一人なのだ。すぐそこにいるのに、もうずいぶん遠くの方へ行ってしまって届かない。

忘れてはならないのは、病院のシーンだ。キョンは確かに、長門有希にお礼を言った。改変後の世界でもしてもらったように、コートもかけてもらった。ただ、ほしかったのはそんなものではなかったはずだ。するとどうだろう、唐突にキョンはたしかに「有希」と呼んだのだ。しかしどうだ、顔をあげると空からゆっくりと「雪」が舞い落ちてきていた。現実とは、あまりに残酷なものだ。このような恋愛ドラマを全く見てこなかった私は、この瞬間に胸がつっかえるような心地がして、涙が止まらなかった。キョンの視点で共にいろいろな事件に巻き込まれ、最後には帰ってくる。昏睡状態のキョンのそばでひと時も離れずに眠っていたのは、まぎれもない涼宮ハルヒだった。確かに、このシーンもぐっと来てうるうるしてしまった。しかし、涼宮ハルヒの場合はそのあと安堵の日常が戻っておしまいだ。長門の場合、それは永遠に報われることのない思いを抱えたまま、かなわないと知っていながら、少なくとも卒業まではずっとそばにいなければならないのだ。それを思うと、涙が止まらなかった。今も、手を震わせながら、視界をにじませながら書いている。


上手く言語化できた気がしないが、一旦はまとめることができた。予想通り、胸のつっかえは取れない。これほどつらいものもあるものなのだなと思った。私は、アニメ版はもちろん、劇場版の長門有希も大好きだ。昨日書いた日記に、気持ち悪いオタクのような(「のような」は不要かもしれない)思いのたけを長文にわたって綴ってしまった。私は、アニメや映画のように人の心にズケズケと入ることを恐れ、まともな恋愛などはしたことがない。だから、私のできないことをやって、複雑かつ言語化に困る感情にさせるからこそ、恋愛映画やラブコメなどはあまり好きではないのかもしれない。不確実だ。

しかし、原作放映から十年以上がたったこの時代に、私が新たに長門有希というキャラクターを好きになり、彼女のせいで精神的におかしくなってしまったことだけは、ゆるぎない事実である。


なんだこれ。

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