避春

2017年の3月13日、わたしはわたしが非常になついている先輩と富山の雨晴海岸——家持や芭蕉の眺めた海に行った。
早春に立山連峰を海の向こうに見れることはあまりないんだそうだが、晴れ女ですわたくし。
海から幻のように雪山が生えている。不思議な景色であった。
けっこうすぐ満足した。

先輩とわたしは、春に霞んだ立山連峰、やわらかな水平線そっちのけでヤドカリ探しに興じ、藻の美しさに喜んで動画を撮ってたりした。その水ときたら底の砂の模様が凹凸の深さまではっきり見えるほどに澄んでいるのだ。玉藻!
一応申し訳程度に立山連峰のほうの写真も撮ったけれども、そんなことより水気を含んだ砂を踏みくずしてはキャイキャイ言っていた。
先輩も、たぶんわたしと似た思いなのだろうと想像がついて、ありがたかった。

別に俗を嫌うだとか奇をてらうような気持ちはない。太宰治リスペクトなどでもない。

なぜだろう。山はリスではないから、たぶんわたしに見られたところでびくともしない。
茨木のり子はそうは言わなかったし、人麿はなびけこの山と言った。わたしも山だって疲れると思うのだが、しかし、たぶんあのときの立山連峰はわたしの目などにはびくともしなかった。

海の向こうからただ眺めるだけの立山は、旅館の部屋みたいでなかなか関わりようがなかった。

とはいえ千葉生まれのわたしにとって、海も、ヤドカリも別段珍しいものではない。あれほどうつくしい砂浜はたしかに見たことがなかったけれども。

立山から目を背けて海だけを見ていた理由は、まだ十分にはつかめない。


あれは何だったんだろう。つくづくと考えて、わからない。わからないが、とりあえず今の時点では、あれは避暑でも避寒でもなく避春だった、という気がする。


思い返せばきっと、あのときの富山、雨晴海岸の空には春がいた。

しかし海には、なにかべつの、なにかがいた。たぶんわたしが見ていたのはそれだ。春ではなく、冬でもなかったなにか。
冷たくもあたたかくもなく、ひたすらに澄んだ淡さがあった。四季の何にも属さない透明そのものの色があった。

こう説明をつけてみてもまだピンとこない。いつか、あの日の海のことがわかるようになるだろうか。

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?