読了メモ「レヴィ=ストロース入門 」8
1.レヴィの神話分析について
本書第5章でレヴィの神話分析が解説されている。が正直、まさにそれだ!て感じはしなかった。そう言えるかもしれないなあ程度。
ちょっと神話内容に踏み込み過ぎではなかろうか?もうすこし形式的、抽象的に分析できるのではないだろうか?という印象。
第5章にはレヴィの神話分析だけでなく分析対象である神話自体も掲載されてるので、上記観点で自分も分析にチャレンジしてみる。
2.固有名詞について
「神話は構造を語っている」
その構造が「親族構造」の場合、とりあえず主人公は「ある男」で構わない。他の登場人物も親族だからその男との関係で「親族名」が決定し、物語中に表現できるからだ。
では逆に固有名詞を割りあてるのはどんな場合か?
第5章を読んでて、とりあえず2ケース思いついた。
① 親族構造上の「位置」に複数人の対象者がいる場合
p105の「末っ子のアサレ」がそれだ。親族構造的には同位置である「息子」達の中の1人を特定している。「ある男」や単なる「息子」では、候補が複数いて誰を指しているかわからず、物語中に表現できない。
ただ、固有名詞を割りあてず「末っ子」という言葉があるのだからそれで
呼べばそれでも良いのだが、なぜ固有名詞で表現するのかはわからない。
② 親族構造以外の位置を設定したい場合
p158の「村の首長のバイトゴゴ」がそれだ。親族構造上の位置ではない「首長」という位置に、「バイトコゴ」という固有名詞を割りあてている。
「首長」という言葉はあるのだから固有名詞で呼ばず単に「首長」と表現すればそれでいいのだが、なぜわざわざ固有名詞で表現するのかはわからない。
なんとなく「父でもあり」「首長でもある」という共通集合性が固有名詞を呼び寄せてる感じはする。
そう考えると、①も「息子でもあり」「その中の末っ子でもある」という部分集合性が固有名詞を呼び寄せてる気がしてきた。
つまり物語が複数の集合を語る時、その複数の集合に共通集合があると固有名詞が割り振られるのかも。なぜかはわからないが。
短絡に考えると、毎回「AでありBでありCであり・・・」と表現してたら情報量が無駄に膨らんでしまうので、それらを「この物語内ではDと呼ぶ」と定義しているのが固有名詞なのかも。つまり情報圧縮。
うーん、いまいち・・・
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