死ぬという事やら殺すという事

また下書きもせずにつらつらと、なんとなくまた色々な思考を垂れ流し書いている。一応誤解しないでほしいので言っておくと、別に死とか殺すという選択を推奨をしているわけではないという事だけは言っておきます。

最近の世の中死やら殺すという選択が多いような気がします。個人的にはコスト消費の少ない人生を歩みたい人間なので、人を殺すとか死という自殺であるとかはしないほうがいいのかなあとはおもいます。

自分の人生を犠牲にしてもその選択をするというのならばその人が決意したのであれば何も言いませんが、人は平等な命という話もありますが、自分は平等とは思わないので、平等ならばなんでいじめや自殺者が減らないんでしょうねとも思うし、人が人を裁くというのも矛盾点があるよなあと考えてしまうひとなので。

それでも人が作り出したシステムの中に裁きというシステムがあるからこそ、社会的に生きれる部分もあるので一概に悪い物とも言わないですが、生きにくいとか障害とか病気とかそういう部分を笑う人も多くいる社会でもあるからなという感じ方もしてしまうから。

どうにも平等という感覚になれないというのもありますね、自分の価値観や考えだけで生きれるほどこの世の中よくはできてないし、価値観のごり押しほど無為な事もないし、誰かが言った言葉を自分の言葉にして話すほど僕は傲慢でもない。

少なくとも自分がよいと思った決断は他者を交えず他者の言葉にも行動にものせず自分の意志でしたほうがいい。

自分の決断は自分の決断だけだし、死ぬ生きるも結局は自分だけの決断なのだし、流されて我慢して何もできなかったならそれまでだし、できなかったことに執着しても仕方ないので次なにすればいいのかぐらいは考えたらいいかなあ。

大切なのは自分がどう生きるかそれにつきるのかなあと。

ぶつくさ文句いって誰かを思い通りにしようなんて事はするべきでないし、したと思ったらあらためるべきだし、まあ無理ない距離で生きればいいとおもいます。

僕個人は命も生活も理不尽や不平等もあるとおもうので、いちいち意見いってもしかたないなあと最近感じたので、正直な話、自分の生活を無理なく生きるので精一杯だし、誰かに助け求めても大概なんらかの面倒には巻き込まれるので、自分のできる範囲で動いた方がいいなあとはおもいました。

それでも無理ならまあなんかするしかないでしょうねえ。
正直な話、誰かの選択が死とかそういうものに関連しても、それがその人が選ぶものならば仕方ないとおもってしまうんですよ。

誰もがその人の悲しみや苦しみを100%知り得るわけないじゃないですか、寄り添うことはできるけど、正直な話長く話をしてお互いが本当に近づける存在じゃないと気持ちは動かないとおもうんですよね。

人は良きものと信じてましたがそんなもんは幻想なので、自分の出来る範囲で何かをできるようになったほうがはやいなあとおもいます。

逆にいえば余裕がない時ほど恐ろしい事を平気でするとおもうので、健全な精神を保つためには色々と距離や関わり方も考えるのもありだとおもうんですよね。

自殺や誰かを殺すという最大の禁忌を選ぶ前に、安易に人を殺すとか死ぬとか言うけど、それって基本的に本当に自殺未遂とか殺されると感じた人しか言えないとおもうんですよね。

そのうえで選ぶならばそれだけの覚悟があるからするわけなんでしょうから、仕方ないとは思いますけど。

よく考えたら人間だけだとおもうんですよね、自分の感情で同種を死に追いやるとか殺人衝動を起こすのとか。

そう考えたら人間というのは不自然でもっとも怖い生き物なのかもしれませんね。

だって死なせたとしても直接手を下さなかったらそんなつもりじゃなかったですむんだもん、怖いですよね。

まあそんなつもりのない事なんてあるし、僕もそんな風に感じた事もあるので人の事言えませんが、大切な感情とか言葉を丁寧にはしたいですね。
これからは。

いつ自分も知らない誰かも対象になるかわかりませんから。
平等ではないし価値観の相違なんてあたりまえだし、正直な話、自分自身が正しいという感情ばかりを持つのは自分としては狂気に等しいとおもうので、怖いんですよね。

そういう感情だけで過ごすと色々と楽でしょうが、きっと人間的な感情や理性の大切な何かを失うような気もしますし。
それはそれで僕も含めて当人次第なんでしょうね。

少なくとも今後は穏やかな生き方を模索したいので、疲れるような負担は極力ないようはしていきますけどね。

#選択 #死について  

発達障害当事者の詩人が色々と経験しながら生きていくかんじです。興味あれば支援してくださるとありがたいです