タクシー小話 10 「俺も人なんだけど、と思った話」
意外と人間は言っていることと、やっていることが違う。
銀座の老舗洋食店の前で乗って来たのは、紳士な老人と、その老人にへりくだる50代ほどの男性、その男性のおそらくむすこである大学生ほどの若者だった。
紳士は大学の教授で、ある分野で世界的に功績を残している人だというのが会話から分かった。
「運転手さん、あのですねえ」
紳士な老人は、お宅に近づくと穏やかな口振りで住宅街の細かい道を説明してくれた。
その雰囲気はまさに一流。偉大な功績を持っておきながら偉ぶらない。
その老人が降りる別れ際、へりくだる男性も車外に出て頭を下げ、老人はそれにも謙虚に反応した。
「○○さん、全然威張ったりしないだろ。しかもお前にも敬語で」
息子と二人になり、へりくだっていた男性が話始めた。
「紫綬褒章も取られて、世界でもその分野で知らない人はいないんだよ。俺が大学の頃から誰に対しても同じように接する人だったな」
確かにそれだけの人柄を感じられた。
「そういうところも見習ってほしいな。大学院に行って、誰よりも勉強が出来たとしても人間性がダメだと全部台無しだから」
息子はしっかり受け止める。
「会社やってて色んな人見てきたけど、結局人間として善くない人は上手くいかないよ。残念な人も沢山見てきた」
その話は納得できるものだった。
この仕事ではピンからキリまで様々な人間をお乗せする。
中には高級マンションに帰る横柄な者もいて、その者がどんな世界でどう生きているのかまでは知らないが、本当にすごい人は穏やかさの中に僅かな威厳が見え隠れし、その一片だけで壮大な器を感じられる。
「何度も聞くような話だけど、分け隔てなく敬いの心を持って人に接することを常に意識しておいた方が良いよな」
父の言葉に息子の深く呑み込んだような返事が聴こえ、この親子のやり取りに胸がジンとしてきた。
同じようにお客様を送るにしても、このような気持ちになれた方が何十倍も価値を感じる。
目的地に近付き、細かい道を伺うと
「ああ、あそこ左」
分かりづらいためもう一度聞くと、
「いや違う!その次」
曲がると、
「ここで良い」
急には停まれず、
「ここ、ここ!」
停まると、
「チッ!」
あれ。俺って、人、だよな……。