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フジテレビ、東京都庁の建築を手がけた丹下健三氏の海上都市構想「東京計画1960」がSFチック from東京のナゾ研究所

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ヨナシロです。

東京でタクシー運転手をしていると、各地の様々なスポット、名称、歴史が気になるようになります。
歴史で習った誰もが聞いたことあるあの「桜田門外の変」の場所であった桜田門は毎日のように通ります。
そこに反応するお客様もたまに居ますし、何度も通る僕は各地を通る度に「ここは〇〇があった」というチョットしたテーマパーク感を味わえます。

桜田門外の変にの後の話ついて調べてみると、江戸時代の厳しさを知ることが出来ます。
あの日は寒く、皆防寒の恰好をしていたため、水戸藩の奇襲に対して井伊直弼側の家臣は抵抗が難しかったそうです。
結局すぐに抜刀することも出来ず素手で立ち向かう者も多く、辺りには切られた耳や指が転がっていたそうです。
そんななか、殺められる家臣や逃げる家臣も存在しました。

それらの家臣も、事件後に処罰を与えられることになったそうです。
逃げる家臣は当然罰を与えられるわけですが、殺められた家臣も井伊直弼を守れなかったというところから死人として罰を与えられるということもあったそうです。
その場合は、死んだ家臣の家族がその対象になり
今でいう犯罪者の家族というレッテルのような「あいつは逃げた奴」という罰が家族に与えられ、生活は苦しくなったといいます。

そのような、各スポットの歴史を知ることは仕事を退屈にしないためであり、楽しむためでもある、趣味のような位置づけになっているのですが、
この前は少し違った東京の街を楽しめる本を見つけました。

それが日経電子版の好評連載「東京ふしぎ探検隊」より鉄板ネタを選りすぐって、大幅加筆、出版された「東京のナゾ研究所」という本です。

(本のHPです。アフィリエイトではありません)

どれも面白い話ばかりですが、今回はこの中から丹下健三氏の「東京計画1960」についてちょっと書いていきます。

丹下健三氏が海上都市を構想「東京計画1960」

「東京計画1960」とは
丹下氏を中心に東京大学の丹下研究室でまとめられた計画。
東京・晴海と千葉・木更津を道路で結び、その周辺に海上都市をつくる構想。

丹下建築都市設計のHPにはこのような写真がある

FireShot Capture 109 - 東京計画1960 - 丹下都市建築設計 - www.tangeweb.com

一直線に伸びるこの線を「都市軸」と呼び、都市軸に沿って
「サイクル・トランスポーテーションシステム」という3層の道路が展開し
上層は時速120キロ、中層は時速90キロ、下層は時速60キロと制限速度が異なり、それぞれ10車線の螺旋状に連なる構造だったそう。

東京よりの海上には「新東京駅」浦安には新空港で、実現していたら東京ディズニーランドは今の場所にはなかったかもしれないとか。

この海上都市、500万~600万人が想定した。
(500万は北海道や福岡の人口と同等で、現在の東京都の約半分)

丹下氏は、なぜ東京湾だったのか。という問いに「建築と都市」(世界文化社)でこう記されていたそう。
「地上権のないこの海上では、土地から解放された新しい都市のありかたが、生まれてくるだろうという別の期待もある」

その後土地バブルという方向へと歴史は進み、丹下氏の海上都市構想は実現することはなかった。
しかし東京湾の開発計画はその四半世紀あとのバブル期にピークを迎え、
その最中で開発計画の担い手となったのが弟子の黒川紀章氏だった。
黒川紀章氏は東京の国立新美術館や、メディアでたまに取り上げられる東京・銀座の中銀カプセルタワービルなどの建築を手掛けています。

(中銀カプセルタワービル)


バブル期の東京湾開発計画では大手ゼネコンがあらゆる開発計画を出されました。
ヘドロで埋め立てや4000メートルの富士山型など、今では考えられないほど夢のような大構想でひしめき合っています。
バブルの頃は国全体で夢を追う感じだったのかな~、と読みながらワクワクしました。

その内容もまた記事に書きたいと思います。



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