「お母さん食堂」に見る多様性と排斥

yahooニュースを見ていたら関西の女子高生がファミマの「お母さん食堂」の名前を変えようと署名活動を実施しているとのニュースがあった。

「そもそも本当に高校生か?」との疑問は抱きながら記事を読み進めるとガールスカウト日本連盟とかいう怪しげな団体が裏にいることが分かった。

いい加減子供をだしにして活動するのはやめてほしいものだけれど、なぜこういう記事にイライラするのかを自分なりに言語化してみた。

概要

今回の活動を要約すると、上記連盟の集会に参加した女子高生がジェンダーについて考えた結果、ファミマの提供する「お母さん食堂」が女性の社会的役割を規定し、自由な社会参画の妨げになっていると判断したようだ。

彼女らはこの商品が「家事・育児をするのは女性だという印象を払拭するのを妨げている」と主張している。

もちろん女性の社会参画の多様化に関しては文句をつける気は全くない。

何せ私は多様性を重んじる社会が理想だと考えている。それは女性の社会へのかかわり方のみを例外と考えていない。

だから「女性だからご飯作れ」なんていうつもりは毛頭ない。

ただ同時に「別にお母さんがご飯作ったって良くない?」とも思う。

この名称は別に女性に役割を押し付けているとは思わない。

ただメインターゲットであろう20代以降の幼少期の家庭ではお母さんがご飯を作っている割合が大きいから、そこにリーチするためにこの名前になっただけであって、そこに差別的なニュアンスを見出すのははっきり言って自意識過剰だろう。

サイトでは「料理をするのはお母さんだけですか」と呼び掛けているが、「別にお母さんが料理したっていいだろう」としか思わない。

多様性の敵としての排斥

そこまで考えるとなぜこの記事を読んで心がざわついたのか見えてきた。

要するにこの女子高生たち(もしくは裏にいる汚い大人たち)はかつてあった「お母さんがご飯を作る」という光景を排斥しようとしているのだ。

私個人としては女性が自由な生き方をするのを非難するつもりは毛頭ない。

それと同時にこれまでの価値観に従う女性を攻撃する気も毛頭ない。

これらはお互い共存できるものであって、共存している状態が多様性のある社会というものなんだと思う。

つまりこれは一見女性の社会参画へ問題提起しているように見えて、その実何らかの利権のためにこれまであった何かを排斥しようとしている。つまり「これからの女性は家事育児をする必要はない(してはならない)。もっと自立しなければいけない」といった価値観の押し付けなのだろう。

こういった多様性を推進しているように見せかけた排斥が私は嫌いなのだろう。

多様性のある社会 ≠ 移民の受け入れ

似たような構図は移民問題の主張にも見える。

移民の受け入れと多様性のある社会を一緒に語ろうとする人をよく見かけるが、この二つは全く別の事柄なのではないかと思う。

というのは、多様性のある社会とは異文化に対して寛容になることであり、異文化と共存することである。

これはわれわれ日本人が外国人の文化に寛容になるべきということでもあるが、同時に外国人も日本の文化にリスペクトを払わなければならないということだ。

このように多様性のある社会とは双方向性のものであるから単に移民の受け入れといっても直接はリンクしないわけである。(つまり日本になじむつもりがない、あるいは日本文化を破壊しかねない外国人を受け入れることは逆に多様性のある社会からの後退を意味する)

一言で「移民の受け入れ」といってもその導入の仕方によっては多様性のある社会に一歩近づくかもしれないし、逆に百歩くらい遠ざかるかもしれない。

利権のために移民の受け入れを推進している人たちから見たらどうでもいいことなのだろうが、私からするとこの二つは大違いだ。

貧困な発想では社会は作れない

私は本質が排斥的なものは基本的に嫌いだ。

だから今回の女子高生の活動には賛同できない。

それどころか嫌悪感すら感じる。

今回のように「気に食わないから名前変えろ」では排斥しようとしているようにしか見えない。

こうやって騙すような卑怯なやり方をするのでなく、もっとポジティブな方法でやってくれたら応援できたかもしれない。

たとえばローソンに「女性が家事育児をするというイメージ払しょくのためお父さん食堂作りませんか」と企画書もって提案しに行くとか。

そういう新たな価値観を作るために新たな商品を作って一大ムーブメントを作ろうみたいな発想はできなかったものか。

将来的に きのこの山 VS たけのこの里 みたいになれば平和的でほほえましいじゃないか。

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