経験知は経験値ではないよね
経験知は経験値ではないよね
とても単純な話なのです。
”経験したことだけ信じる”からといって、それが”全部知ってる”とか”経験値が高い”ってことではないよなぁってことなのです。
「そんなことは聞いたことも無い」
「そんなことは知らない」
そこから導き出される次の行動が
「だから、それは間違っている」
「だから、それは正しいはずがない」
と、そんな道理はないんじゃないかな。
だから、こんな風なのがたのしいです。
「なに?聞いた事が無い。」と、口が言ったなら、
(なんだろう?知りたい!)と思っている。
「初めて聞くな」と、口が言ったなら、
(どういうこと?自分で確かめたいぞ!)と思っている。
それでね。
自分で確かめてみて、(わたしは、そういうことは感じなかったなぁ)ってなったとしても、だからってそこで「ほら、やっぱりそんなはずはなかったじゃないの」ってなるのは、さみしいよね。そう。
わたしはそうじゃなかったけど
あなたはそうだったんだよね!
それだけで、いいのよ。ね。
初めて聞くことは、今まで知らなかったことだと知ったということ。
それはとてもワクワクします。年齢を重ねるごとに《初めて出会う》経験はとてもうれしいものです。幼い頃ではなおさらだったのかなって思います。
自分が知っていることが、【全て】ではないのだから。
自分が理解していることは、【今までの自分】なだけなのだから。
紡ぎ出す言葉の次にくる未来が、決まりますね。
どうしたい?どうでありたい?
知らない自分に、優しくすればいいだけなんだなぁ。
知りたいと願ってる自分を、応援すればいいだけなんだなぁ。
難しく考えないで、自分に向かって微笑んであげればいいだけだったんだなぁ。
思いのほか、世界は優しくてありがたいねってことに気づきます。
もしそうでないと感じた時も、(いやいや、世界は優しくてありがたいぞ!)って唱えると、そういう前提で物を見ますから、いやがおうでも「優しくてありがたい世界」を感じます。《感じる》感性にまっすぐに到達するにはちょっと練習が必要です。それまでは《理屈》です。ごり押しです。
言った(思った)からには、なにがなんでも「優しくてありがたい世界」を説明する自分になってみるとよいのです。
「優しくてありがたい世界ですね」←言ってみる
「どうしてですか」←聞かれてみる
「だって、そうでしょう?」←ここでもまだ答えがなくても言ってしまう
で、無理矢理でも言葉をつなげてしまう。
なんてことを、やってしまうのです。
いいんです、いいんです。
それが事実でなくても、正解でなくても、嘘でもいいんです。
心がほんわか、ゆるめば、それが正解です。達成です。ゴールです。
そういうことにしておきます。
なんだっていいんです。
最後に「ありがとう」って気持ちになれれば、なんだって。
そういうことにしておきましょってことで、いいんです。
でも。
そんなふうには踏み出せない時っていうのは、たぶん。
自分以外の誰かが、勝手に、自分のことを決めてくるからなのよ。
「あなたは、そういう人じゃないでしょ」って。そういう期待に応えてしまうのよ。優しいから。どうしたって、優しい心の持ち主だから。
まぁ、だから。
わがままかしら?って思うくらいでちょうどよくなる人は、かなりの数いるんだと思うのですよ。それぐらいが自分に素直になれて、よろしいんじゃないでしょうか。