キミの歌が聴きたかった~生命の歌~

渋谷の坂を下っていると、小さな男の子と女の子がしゃがみこみ、何かをじっと見ていた。

「セミの抜け殻ですね」

その子たちの母親が、僕に微笑みかけて言った。

3人が歩き去って、僕はセミの抜け殻を手に取った。


親指にとまらせ、10年前の夏の日を思う。

あれは、今日のように暑い日、陽も暮れてきた所沢。


家に帰る途中、セミの幼虫がアスファルトに逆さまになって、もがいていた。

アリがたかっていた。

アリを追いはらい、僕は幼虫を手に取った。

セミの幼虫の外皮は硬い。

無事なようだ。

でも、ちょっと弱っているかな?

安全そうな木の下まで運んだ。


さぁ、がんばれ!

幼虫がゆっくりと木に登りはじめたのを見届け、僕はその場を離れた。


何年も土の中にいて、歌うための準備をしてきたんだよね。

キミの歌が聴きたいな。

がんばってね。


翌朝、昨日の場所に行った。


キミは力尽きていた。


背中がちょっぴり割れていた。

羽化しようとがんばったんだね。


キミの歌が聴きたかったなぁ。


セミの抜け殻になるはずだったキミの亡き骸を、僕は埋葬した。


セミが鳴いていた。

セミは何年も土の中で過ごし、羽化し、恋をしてわずかな日々を精一杯鳴き、子孫を残して土に還る。


生きられなかったものも含め、総体として、生命はその意志をつないで生きている。


君の歌いたいという想いは、今もこの世界に満ちているんだね。

歌いたいという想いがいっぱい歌っている。

だから、所沢も渋谷も、夏は蟬しぐれ。

親指にとまらせていたセミの抜け殻を木の枝にとまらせ、僕はまた歩きはじめる。


セミが鳴いていた。

生命が歌っていた。

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