サーカスへの憧れ

見世物小屋というものがあった。今の詳しいことは分からないがマツコ・デラックスさんはテレビこそ見世物小屋であると言っていた。今ではインターネットというのがあるおかげで地球が丸いことも、地球を中心に太陽が回ってないことも分かる。サーカスというものを初めて見たのは中学生ぐらいだったか。それまで公文式で『ダレン・シャン』という本を読んでサーカスを想像していた。高校生になると『ブロンコ・ビリー』という映画をたまたま観て、サーカスとはこういうものではないと判断つくようになっていた。今、僕のサーカスの良いとするところは楽屋との出入りする幕であるカーテンの端だ。なんと立派なステージだろうか、そう思って眺めていたいのだ。観客席からも眺められるだろうが、野球も内野席がいいようにバッターボックスからグラウンドを眺めたいのだ。しかし、芸事を学びたいわけではない。それは全てにおいていえることだが、夜の民家を外から眺めて暖かい家庭を想像するように入って慣れてしまうと面白くないのだ。「空間」とは面白いもので、狭くても広くても芸術的なものを作ってしまう。芸術というのはよくよく考えると、当たる人当たらない人を作品が選びその人の頭の中にメッセージが入り込む。万人に当たる芸術など無い。人の価値観なんて他人がそうそう簡単に変えられるものじゃないし、もしかしたら始まる前から決まってるものなのかもしれない。円盤さんで面白い音源と出会った。古い音楽教材のような音質なのだが、例えば「子犬のワルツ」を流して女の子がこれは子犬のワルツねと答えると先生は題名を「蝶のワルツ」と思って聞いてごらんと教えて女の子は蝶でもおかしくはないわと言うと先生はそう、音楽とは題名に捉われなくても楽しめるものなんだよと落ち着く。この世で最も不思議なのは同じ物があるのかないのかということだ。例えば、デジタルの世界だとコピーが簡単にできるが正確にいうと同じものではない。新規作成してコピーしたなら作成日時がもの凄いミクロに調べてみると違う。しかし、データの概念も一緒ならはたから見た目も全く一緒だ。雨の降らない地域もあれば日が落ちない地域もある。果たして、雲の行き先はどこなんだろう。先日から缶コーヒーを買うのを禁じている。やってはいけないことだが新発売の缶コーヒーが苦すぎて飲めず、下水に流してしまったのだ。それからは「カフェオレ」はOKだが「微糖」等はダメとしている。堤監督の『HIJIKI』を観れば一発で判るのだが、ひじき煮とオレンジジュースを摂れば全ての栄養が手に入る。この頃、その歳でそんな食事を続けてるとある日ガタがきて…と怖い話をされた。布団が足りない。それでも、この冬をのり超えてしまうともう一枚かけるものは買わなくなるだろう。備え付けの冷蔵庫のある貸家を選んだものの、冷凍庫のゾーンが狭く保存に向かないので新しい冷蔵庫を買わなくてはいけない。しかし、部屋に置くスペースが作れないでいる。マッサージを仕事にしてた時、冷え性について悩んでいる方々が血行をよくするために施術を受けていた。『海の上のピアニスト』では確か赤ん坊のころからボイラー室に行き来していたと思うが、もし金属に囲まれて育った人は世の中というのがどういう風に見えるのだろう。スパゲッティを二人前作った時、ペペロンチーノのソースをかけると一人前用一袋だけで全体に味がいきわたるが味が薄い部分もあるので七味唐辛子を混ぜると良い。

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