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繋ぎとめるということ2

コロナで活動できないあいだ、グループLINEでメンバーとのやり取り、稽古らしきもの、朗読へのアドバイスなどを続けた。いいこと、新しく生まれたこともあった。無駄だったとは思わない。しかし、なんのためのLINE活動だったのか。みんなを繋ぎとめるためのものだったのか。そもそも繋ぎとめる必要はあったのか。

いいことはたくさんあったが、大変なこともあった。動画や録音で上げてくれる朗読に文字で、文章で意見を言うのはなかなか難しかった。しかし、ふだんの勉強会でも「言葉で説明する」ことを中心にしてきたので、「初めて出会う大変なこと」ではなかった。どう表現すれば、相手がどう変わりそうか、ということはある程度想像できた。ただ、時間をかけて言葉選びができるぶん、とことん考えることも多かった。アタマのなかで言葉が踊る、いつまでも消えない。反芻する。軽い不眠に陥った。

一般向けの朗読講座の講師を始めて13年目になる。ひと月に2回、公共施設の会議室で2時間。中高年女性が殆ど、高齢に入った方も多い。受講歴も長い。有難いことに全員がメールで繋がっていて、スマホの方も多く、この年齢層で見事だと思う。しかし、自団体のようにLINEを使う、やれZoomだ、録音データだ、というわけにはいかなかった。講座を学習や表現、出会いや外出の楽しみとして活用してきた方々に「中断」は気の毒だった。

お手本を示すということは好きではない。朗読の舞台を観て頂くことは、いい学びになるとは思っているが、もちろん強制していない。でも、空白の時間に何か届けてみようか。これまでも音声ブログで朗読を上げてきたことはあったが、なかなか面倒だったし、届きにくかった。いまだから、時間をかけずに講座のテキストを中心にした短い朗読を受講者に手渡そう。URLで送れたらいちばん楽かもしれないと考えて突然YouTuberになった。普段着のまま朗読して「ほいっ」と上げるから、「普段着でごめんなさい。」という題をつけた。きれいに整えるヒマも体力もない。必要も感じない。中身だけでいい。それでも「努力」して17本になった。

自分のやりたかったことをやっっているのだと思う。受講生や自団体のメンバー、朗読に興味のありそうな舞台人を繋ぎとめるためだったのか。そうかもしれないし、それはこじつけた理由かもしれない。これも、このどうにもならない時間の中で生まれたものには違いない。

自団体でも「繋ぎとめられなかった」人もいる。健康と安全と仕事を選んで退会した人もいる。別の団体でも、この環境での体力維持や家族の安全を考えて、次公演への不参加を決めた人がいる。繋ぎとめられないものや人が出てくるのはこれからだ。「鑑賞」しに行かないほうが自分の時間やお金が持てる、「参加」はそれほど大事なことじゃなかった、と。それは、そもそもそういう人たちだったんだ、と言えばそれまでだ。繋ぎとめようとしなくても、残る人、続ける人はそのままだとも言える。自分自身のなかではどうなのだろう。朗読を届ける手段を一つ新たにして、これ以上を求めない、年齢的にも、それで満足な部分があるのかもしれない。気弱さ、安穏さを引き出される。

何もしなくても、「じゃ、会えるようになったらまたね」「さあ、始めるよ」で済んだかもしれない。そうではなくて、こう足掻いたことで、何か大事なハードルを越えたのかもしれない。まだ越え切ってはいないが。結果はすぐには出ない。

普段着でごめんなさい。⑰新美南吉「耳」(カット版 全)https://youtu.be/VCpvjIyfEHo

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