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推しに認識されずに推していきたい愛

尊敬申し上げる作家の方のコラムを読んでいたら自分が使っているスキャナーと同じものを使用されていることがわかり、ふいに訪れた共通点に小躍りしそうになったのだった。

かと思うと、敬愛する仲里依紗女史のラジオ番組で自分の投稿が読まれ、それがお悩み相談コーナーへの投稿だったため必然的に私の悩みについて考えてコメントまでくれるという、大安も天赦日もそこまでは気の利いた福は用意できんだろうにというくらいのご褒美をくらってしまった。おそらく彼女のファン層の平均年齢をごり上げている私だが、なぜ投稿が選ばれたのかそれだけが疑問である。里依紗女史は終始敬語を使って答えてくれていて申し訳ない反面恐れ多く床に額をこすりつけたまま尻を天に突き上げつつ聴いてしまった。

しかも後日、ラジオ提供元である花王からワイドハイターPROまで届いてしまった。ワイドハイターはEXまでしか使用したことがなかったのでこれまたおののいてしまい、以後、うちで使用する洗剤は当分花王製品一択で、ということに決定した。このままハガキ職人になって里依紗への愛を語り続けることも考えたが、推しを怖がらせる存在にだけはなりたくない。Xで彼女のファンからたたき潰されても文句が言えない状況を避けるべく心の中で謝意を述べ、これまで以上にYoutubeの再生回数を上げることに尽力しようと誓ったのだった。

推しの存在とはいったい何なのか、と書こうとしたけれどあまりにも壮大&数多の著名人によって論じられているので私が参戦するなどおこがましい(そして面倒)ということで多く書くまいが一言書いちゃうとすると「よくわからない」である。好きなのは大前提であり好きに理由はない、その発言や存在になんだか心惹かれてしまうのが「推し」である。私の場合は外見だけで「推し」になることはほとんどない。かといって深く人間性を見定められると言いたいわけでもない。どんな人間かは正直なところ誰にもわからないわけだが、発言や雰囲気、価値観などをちょこちょことつまみ食いしていくうちに気づいたら虜になっているというのがいつものパターンである。

個人的に気を付けているのは神格化してしまわないこと、である。推しがすべて正しいとなってしまうと自分で考えることをやめてしまう危険性がある。私は特に子供のころ一度「考えるのやめた」と心に決めたことがあるくらい、ヤバイ片鱗があることを自分なりに理解している。少しでも推しと意見が違う場合は、「そういった考え方もある。むしろ違う世界見せてくれてありがとう好き」くらいの愛が自分の推し方だとしている。もちろん内容によるわけで決定的な価値観の違いが生じたら、これまで愛させてくれて本当にありがとう好き、という感謝とともに静かに離れていけばよい。喪失感はあれどそれはすべて自分の人生の上だけで起こった単なる点のひとつであって、誰かを傷つける理由にはならないのである。

結局とうとうと「推し論」してしまったが推し活ガチ勢の方々からしたらこんな通りすがりの屁のような文章は文字通り屁のごとく消え去っていくであろう。そもそも推しの誕生日も知らなければコンサートをやる日も知らない人間なので、本当に推しなのかと問われるとこちらも真顔で沈黙を返すことしかできない。元来人間にそこまで興味がないのである。興味がない人間が「好きかも」と思えただけでも推し爆誕なのだから優しく見守ってほしい。

ということで私は今日も自分のことだけで精一杯になりながら、里依紗女史を筆頭に多々いる推しのラジオやYoutubeやらを楽しみに生きるのである。


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