自分の認識が信じられない
今、ハンナ・アーレントの「人間の条件」を読んでいる。前回の投稿のように少しずつ落ち着いて精読(?)を進めている。
一旦区切りをつけて、シャワーを浴びている時にふと思い立ったので、忘れないうちにとMacBookの前に急遽向かっている次第である。
ちょうどデカルトの懐疑論の話が出てきたところだったので、それに関連するような関連しないような内容である。
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自分の認識が信じられない
そう感じたのは、まさしくこの本の精読を進めているときである。
通読(精読を始める前)していたとき、最後の章だけ書いてあることがいまいち入ってこなかったのである。あんまり脈絡がないというかどういう意味なんだろうなぁと思って一旦後回しにしていたのである。
そして、問題の最後の章の直前までは精読が終わりいよいよという段。もう一回通読してみようと思って試してみたらやっぱり意味がよくわからない。またもや後回しにしようという甘い誘惑になんとか打ち勝ち、一節ずつ精読して、内容をまとめていったのである。
そうしたらなんてことはない。落ち着いて読めば言わんとしていることは意外と分かる。時間はかかるけれど難攻不落の要塞というほどでもなかったという気持ちになった(なおまだその章の半分も終わっていない...)。
ここで思ったのは、タイトルの通り、「自分の認識は信じられない」だったのである(デカルトが出てきて引きづられて似た言葉を使いたいだけ)。
要するに、
なるほどわからんと思っても、やりようによってはわかる
ということである。
自分には能力がないとか、前提知識が足りないとかそういうことではなかったのである。単に、理解する姿勢や方法が適してなかったということなのだろう。
でもまた同時に、
また読んだら、また理解が変わるんだろうな
とも思うのである。結局はわかった気になっているだけで今も大してわかっていない。自分が理解していると思っている状態なんておそらく高が知れている。
だから自分の認識を確定させずに暫定的な理解として置いておくしかないなと思うわけである。人と話せばまた認識が変わるだろうけれど、その過程がきっと面白い。そのためのたたき台を作るくらいの心づもりできっとよい。
そうしていくうちに少しは初見での認識の精度が上がっていくといいな、という淡い期待を胸に(そもそも100%の精度の認識とは何なのかはさておき)。
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シャワーしながら思いついたときには名案だな!と思ったのだが、いざ書いてみるとなんてことはない文章になってしまった。そのあたりも少しずつまともな内容が書けるようになるといいのだが...。
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