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凡人は知識がメモリに乗るまで前処理をする他ない

ふと思いついたアナロジー。妥当性があるのかは知らない。

ただ本を読んだりしても得られる知識や情報は未加工のまま、HDDやSSD的なところに保存されるようなものであろう。丸暗記が厳しい情報量であれば、ノートやメモツールなどの外部記憶装置(つまるところ外付けSSDということになる)を使って記録を残しているはずである。

しかし、得てして人々は外部記憶装置が劣化したり、破損したり、紛失したりする。そうして知識や情報を得ると同時に忘却していたりするであろう。そんな情報を保存し、ただ取り出すだけであれば絶対にコンピューターに勝てない。

別にコンピューターに勝つ/負けるとかはどうでもいいが、適材適所として、知識を統合し有機的に活用することで新たなる意見や結論を導く役割を担えるようになっておいたほうが懸命であるように見える。これを意識すれば、死蔵する知識も幾分か減らせるかもしれない。

そもそも、保存された知識自体に手段的価値を見出しておらず、読んだり見たりしている瞬間に感じる悦を得ている時点で目的を果たし消費済みという場合もあるのだろうか。

それでも、ここでは、せっかく得た知識・情報の活用を前提としておこう。

知識の統合を実現するには、CPU的なものである脳で知識を処理してやる必要がある。そのためには、アナロジーをそのまま使えば、一度知識をSSDから取り出しメモリに乗せなければならない。長期記憶から短期記憶への呼び起こしてこなければならない、そんな感じだろうか。

しかしそんなことは可能だろうか。とてもCPUやメモリのスペックが高い人でなければ、複数の生の知識や情報をそのまま手元に持ってきても、「つまりどういうこと?」となって戸惑うのではないだろうか。思考対象が複雑であればあるほどそれは顕著になるはずだ。なぜなら、SSDから読み込もうとしている知識量がメモリに対して膨大すぎるからであろう。

とするならば、メモリに乗せる前に保存された知識や情報に前処理を加えるしかない。無駄を省き、圧縮し、重要な部分だけを取り出す。そうした前処理が行われた状態の知識や情報であれば、複数個同時に取り扱って考えることもなんとかなるかもしれない。

同時に取り扱える情報量が多い(= 脳のスペックが高い)ければ、そんなまどろっこしいことを考えずに生データをそのまま演算できるのかもしれない。だが、凡人には凡人なりのデータ処理があるということであろう。Out of memoryして処理が止まっては仕方がない。どんなに遅くとも少しずつ処理を進めていく必要がある。

データの前処理をし、処理しやすい形にし、途中経過を書き出し、また続きから処理する。適切な手順を踏めば、性能の低いコンピューターでもやってやれないことはないだろう。

凡人には凡人らしく愚直に紡いでいくしかないのである。

* * *

振り返ってみるとだいぶチープなアナロジーになってしまった。

でも、少しずつやっていくしかないなというお気持ちを表明しておくものとして残しておこう(ショートカットなぞ基本ない。ただOut of memoryやデータ損失を繰り返す無駄な事をしている可能性はある、そんな感じだろうか)。

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