2024.5.18「不可視の道をあらわにすること」 友部正人、ギリヤーク尼ヶ崎、相羽崇巨の大道


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5月18日、横浜市の六角橋商店街で1997年から定期開催されているという異色の投げ銭イベント、ドッキリヤミ市場へ。

『大道芸人』という名曲がある友部正人さんが、齢93歳にして現役を貫く伝説の大道芸人、ギリヤーク尼ヶ崎さんと共演する。
3月に石巻でご一緒した際、友部さんの公私に渡るパートナーであるユミさんからお誘い頂き、必ず観に伺おうと決めていた。

早めに自宅を出たつもりだったが、横浜横須賀道路が珍しく渋滞していて少し焦った。会場がスーパー裏手の駐車場であるという子供同士の約束みたいなインフォしか得られていないことも焦りを加速させたが、それらしい路地をぐるぐると回っているうちに、なんとか開演10分前に到着することが出来た。

しかし何故かすでに友部正人さんの歌声が聴こえてくる。
予定時刻よりも早めに放たれるその声は、どこか特別な熱を帯びている。

駐車場は大盛況だった。普通のフェスとは違う、街に根差した人々の土臭さを感じる。すぐそばの商店街では露店も出ているようだ。
最後尾から人垣越しに背伸びをして観ていたが、サイドに出来たわずかな隙間に潜り込んでみたら、なんとかユミさんを見つけることができた。

「あれっ、旅人さんじゃん。来るんだったら教えてくれたらいいのに」

誘ってくださったことを、完全に忘れているユミさん。頭の中で、友部さん1976年の歌、『ユミは寝ているよ』が流れた。

その場には、原マスミさんや、数年前にコメントを寄せた映画____戦中に日系人強制収容所を経験した在米ホームレスの老画家・三力谷勉の9.11テロ〜イラク戦争期の姿を捉えた印象的なドキュメンタリー『ミリキタニの猫』を撮影監督されたマサ・ヨシカワさんも来てらした。3月の石巻公演をオーガナイズしてくれた瀬尾夏美さんたちとも再会。

友部さんは、いつもと全く違っていた。喉の調子がやや不安定な様子で、咳き込んだり、声が詰まってしまい演奏が束の間、途切れるシーンもあったが、それが全く表現上の瑕疵になっておらず、まるで青年期のライブ音源のような、ひりついた性急さと情熱を溢れさせながら歌っていた。

思いがけず演奏された、『一本道』。言わずと知れた代表曲だが、十代のころ友部さんと出会って以来、ステージで演奏されるのをほとんど聴いた覚えがない。今夜はめったにないことが起きている。
三十歳ほど年下の自分が慣れ親しんできた、円熟し、深みを増した後の奏で方を突き破るかのように、1973年の傑作アルバム『にんじん』の時代の、二十代のひずみを抱えた発声が、現在の友部さんの声にオーバーラップして鳴り響いていた。
この歌い手の人生を、発端から後端まで丸ごと抱え込んでしまっているような壮絶な表現だと感じた。

「ああ 中央線よ 空を飛んで あの娘の胸に 突き刺され」

突如浮き上がった列車に、本当に胸を射抜かれてしまったと感じたのは僕だけではなかったようで、ビルの谷間に集まった聴衆から感嘆の声が漏れる。僕は思わず涙ぐんだ。

曲間のMCで、ギリヤークさんへの言及が二度あった。
ギリヤークさんの生まれ故郷である北海道にちなんだ楽曲を歌い、そして『大道芸人』を歌った。

我々同業の者にとっては、遠望する高みであるはずの友部さんが、今夜は薄暗い駐車場で体を揺らし、声をふり絞って、コールアンドレスポンスまで生み出しながら場を暖めていた。路上から始まった自らの歌の始原に立ち返るかのように。
73歳の自身よりも20歳年長にして、まだ路地に生きることを選択し続ける先達のために、あえて若手役を買って出ているようにも思えたが、
ユミさんがぽつりとひとこと、「今日は友部、はしゃいでるのよ」と言った。

『大道芸人』の歌詞が、この場に捧げられた特大の花束のようにひろがっていく。

「大道芸人は路上をめざす
 けっして舞台になどあがらない
 炎天下だって氷点下だって
 衣装はいつだっておんなじだ
 赤い着物で踊り狂えば
 世界中の車が交差点でブレーキを踏む」

「雨の降る日には部屋にいて
 残った小銭を数えてみる
 数える小銭がなくなれば
 路上でまたゼロから踊るのさ
 大道芸人という職業があってもいいじゃないか
 職業が一つ消えるのは悲しいよ」

もしかするとこの曲は、大道芸人という概念全体に対してではなく、ギリヤークさん個人のために、私的に書かれたものかもしれない。そんなことをふと思った。

演奏後、舞台袖に戻ってきた友部さんは休むまもなく小型のムービーカメラを取り出し、瞳を輝かせながら、ギリヤーク尼ヶ崎さんの登場を待ち受ける。なんだか少年みたいだ。

主催チームによって、ギリヤークさんの現況が説明される。
半年ほど前と比べて、体調が下降していること、出来ないことが増え、歩行も困難であること。
お客さんたちが互いに少しずつ身をずらし、混雑した駐車場に即席の花道が出来上がる。
ギリヤークさんを乗せた車椅子がアスファルトの花道に現れ、ゆっくりと舞台へ向かう。
舞台といっても何の設えもない、我々が立っているのと同じ、瀝青で無造作に舗装された路面の上だ。

事前に思っていた以上に自由の効かない、ギリヤークさんの、2024年5月の身体が、きしみをあげながら半世紀以上に及ぶ試行錯誤の残響を辿り、独創的な演目群の、あり得べきすがたを想像させる。

最も身近で支え続けて来たと思われる黒子姿の女性の一挙手一投足に視線が吸い寄せられる。
ギリヤークさんの動作のすべてを支え、展開が停滞をみせれば、耳元で必死に何かを耳打ちする。

もし一手でも間違えば、誤って転倒でもさせてしまったら、難病を抱える93歳の肉体に及ぶダメージの大きさは想像に難くない。この場で命が尽きてしまうこともあり得るのではないか。
我々は観劇を超えて、生命の限界すれすれで行われる営為を観ている。
その成り行きのすべてを背負う女性の的確なサポート、緊張感に満ちた表情、また柔らかい慈愛の笑み。

ひとつの命が、ひとつの命を支え、まるで彼岸と此岸のはざまを行き来する振り子時計のように均衡を保ち、未知の時間をつむぎだす。

ギリヤークさんが今は亡き実母の遺影を手にし、言葉にならぬ声で「お母さん!」と叫ぶ。

そして最大の見せ場である、タライの水をかぶるシーン。
しかし数分間にわたって動作が途絶える。動くことができない。

やがてお客さんから「ギリヤーク!ギリヤーク!」と声援が、拍手が湧き起こる。完璧なんて誰も求めていない、もう無理しないで、動かないで。そんな悲鳴が聞こえてくるようだったが、その瞬間、細い腕でなんとか宙空へ差し伸べたタライから、おもむろに自らの頭へと水を注いだ。
濡れた白髪に控えめなライティングが照り返し、宵の明星のように淡く輝く。驚愕の声、割れんばかりの拍手につつまれる。
黒子の女性が、ギリヤークさんの身を案じながらも、心底から嬉しそうな表情を見せた。

こうした献身的なサポーターと、お客さんたち、その場にいる全員との相互作用によって、ギリヤーク尼ヶ崎さんの現在は成立していた。

その事は、動作のほとんどを他者に預けた芸の是非を問いかけてもくる。

言うまでもなく、誰の仕事にも終わりは来る。
勤め人なら定年があり、やがて日々の思考や足元が覚束なくなれば、我が子に促されて運転免許を返納したりもする。

定年の機会も免許の類も与えられず、ただ自発的に芸の道に生きる我々は、自ら引き際を決める。
ある者はまだ年若いうちに自分の限界を見極めて退場し、ある者は怪我や疾病による外的な要因で退場する。家庭の事情でやめていった仲間もいたな。
僕自身、三十半ばを過ぎてからは時おり考えた。
子供のいない自分の、人生の引き際、芸の引き際について。

しかし、ギリヤーク尼ヶ崎さんは、血のつながりよりも濃い、路上に生じた擬似家族に支えられ、まだこの道の途上に呼ばれている。

彼の大道芸は、その場にいる私たちのすべてを巻き込み、あらゆる魂が交錯し、交感しあう大道を、果てなく巨大な道を作りだしていた。

大道芸とは、けして束の間の催事でなく、その街の意味を根底から書き換えてしまうようなことなのか。

地域から包摂性が失われ、孤独死やネグレクトが社会問題化し、多くの人々が家庭の内側ですら疎外感を抱えているこの時代に、こんな生き方があり得るものなのか。

芸とはなんだろう?
演者とはなんだ?
個とは、コミュニティとは?

当たり前のように受け止めてきた言葉の意味が一挙に刷新されていくような、貴重な時間を過ごさせていただいた。

横須賀への帰り道、昨年12月に惜しくも二十代で急逝した友人について、筋ジストロフィーのシンガーソングライター、相羽崇巨について考えた。

気管切開による延命を拒否し、声を失わずに済む呼吸器での生活を試みながら、通常の半分以下の肺活量で歌い続けた男。

彼もまた退場を拒否し、私たちを自らの創作に巻き込んで忘れがたい時間に立ち合わせ、自由の効かない身体を最大限に駆使して、誰にも視認できていなかった幻の道を露わにして見せた。

我々の誰もに新たな可能性を与える、不可視の道を。

そして彼の車椅子は、障壁だらけのその道で傷だらけになりながらも、最後の最後まで臆することなく、あざやかに走り抜けていったのだ。
忘れようもない笑い声を残して。


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★追記
帰宅後、私的なメモのつもりでこの文章を書いた後、ギリヤークさんの貴重な動画がネット上にたくさん残されていることに気づいた。
ペースメイカーを入れる手術に踏み切ったり、黒子姿のサポーター(大道芸人の紀あささん)の介助を得るスタイルを確立したりと、時代ごとの体調の変節に応じながら過酷なパフォーマンスを継続する姿。被災地やテロ現場で祈りを込めて踊る姿。懐っこく、気取りのない人柄から、なんでもないことのように、さらっと語られる覚悟。路傍に生き、路傍で死ぬこと。もしかするとそれはギリヤークさんにとって息をするように当たり前のことなのかもしれない。思いがけずお誘いいただいて、今の極点のようなお姿を拝見したが、これからいろんな時代のギリヤークさんに触れていくことで、今日経験させていただいたことがより強い意味を帯びると思った。

noteでの記事は、単なる仕事の範疇を超えた出来事について、非力なりに精一杯書いています。サポートは、問題を深め、新たな創作につなげるため使用させて頂きます。深謝。