「想像力の限界を超えて」入管の壁の向こうへ、アクリル板の向こうへ

私たちが当たり前のように暮らすこの国で、またひとり誰かが、尊厳を奪われ、殺された。

私たちひとりひとりがその誰かについて、もう少し正確に想像することが出来たら、この死は免れただろうか。

人々のそんな葛藤も意に介さず、またも強行的な採決によって、取り返しのつかない改悪へと雪崩れ込んでいく入管法。
日本の入管行政は独特だ。難民認定率は異常なまでに低く、国際的な人権感覚のスタンダードから大きく逸脱し、非人間性を増していく。「他者について想像すること」を、はなから諦めているかのようだ。

いったい、想像力とは、何だろう?

私たちは、日本経済の凋落を突きつけられながら育ったとは言え、それでも十分に豊かで文化的な空間で、想像力を育んだはずだった。かつて、日本ほど多くの書籍やレコードが店頭に並び、映画が上映され、世界中のさまざまな価値観に気軽に触れられる国はそう多くはなかったのだ。

幼い私たちに向けて、あらゆる物語の中の登場人物たちがこうささやいた。
「ねえ、想像してみて」と。

私たちは想像した。
さまざまな身の上のキャラクターが織りなす喜びと悲しみに満ちた冒険を。彼らの過酷な境遇を。愛すべき仲間との出会いや別れを。
幼い私たちは本を握りしめて、彼らと一緒に笑ったり泣いたりした。

私たちの多くは、本の一冊や二冊を手にすることができる、そこそこ幸福な子供として育った。

その幸福が、私たちを鈍らせたとでも言うのだろうか。

私たちは、自分にとって身近な存在だと認識できるものに対しては大いに想像力を働かせ、共に涙を流し、笑うことができる。
たとえば家族、親兄弟や子供たち、友人たちのためなら、心を砕き、あらゆることをする。
しかし、関係性が身内の範疇を離れ、外へと遠のくごとに、相手への想像力は減退し、つよさを失っていく。
未知なる他者に対しては、微笑みすら向けようとせず、冷淡に、路傍の石のように扱う。

繁華街の路上に倒れている誰かを無視し、人身事故に舌打ちをし、ホームレスの暮らす公園に眉をひそめ、入管というブラックボックスに覆われた場所の悲劇を伝えるニュースになど一瞥もくれようとしない。

黒塗りのヴェールの向こうで悲痛な事件の数々を引き起こした入管施設職員たちは、どんな人々なのだろう。血も涙もない、悪魔のような存在だろうか?
なぜ死なせた。なぜ適切な措置を取らなかった。収監者たちの声に、なぜ真摯に耳を傾けなかった。
疑問は無限に湧き起こってくるが、おそらく職員自身の当事者意識も限りなく希薄で、一般の我々と同じように、まるで無関心な部外者のような精神状態だったのではないだろうか?彼らは特に悪気なく勤務し、タイムカードを押して帰宅し、家族と団欒し、翌朝に職場で、冷たくなったなきがらを見つけた。恐ろしいことだと思う。機能不全を引き起こしたこの国の古い入国管理システムの歯車の一部となって、自らの加害性に蓋をして生きる。ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントが言った「凡庸な悪」という言葉が脳裏に浮かぶ。

私たちは日々の出来事に苛まれ、心理的距離と物理的距離に打ち負かされながら生きる。

家族、友人、職場、ムラ、村落共同体に似たあらゆるサークル、クラスター、街、国、世界。
カバーすべき範囲が広がるにつれて、私たちの想像力はどんどん脆弱になり、薄まっていく。
そして、いつまでたっても差別や戦争がなくならない。

インターネット時代が到来して二十年以上を経た今もなお、私たちは想像力の限界を抱えている。

グローバリズムは加速し、世界はどんどん狭くなり、あらゆる文物や情報が流れ込んでくる。
情報は不要な不安も生む。
匿名の書き込みによって、誰かが誰かを怪物化する。
私たちは信頼に足る物語を失い、ばらばらに離散し、彷徨っているようにも思える。

それでもやはり私たちに必要なのは、生身のお互いを知るための糸口ではないだろうか。

2021年の春、入管法の目を疑うような改悪案がなしくずし的に採決されようとしていた時、居ても立ってもいられず「入管の歌」という曲を作り、それ以来、全国各地で歌い続けて来た。
入管施設に長期拘束された両親とアクリル板をへだてて切り離され、「きっと私も18歳を迎えたらここに閉じ込められるのだろう」と怯える子供の歌だ。
彼女は我々の子どもたちと同じで、日本で生まれ、日本しか知らず、日本語しか喋れないのに、その日本国によって、ほとんどすべての可能性を刈り取られている。
もうひとつの母国としての庇護をもたらすべき日本によって。
父親は幼い娘の前で精一杯、平静を装うが、母親は虐待的な環境下で消耗し、日を追うごとに少しずつ心身に異常をきたしていく。
難民として逃れて来た国に、手ひどく裏切られる、ちいさな家族の歌。

私のこうした楽曲が、胸のすくような休暇を求めてやって来た音楽フェスなどのオーディエンスに、いつでも好意的に迎えられるわけではない。演奏中、ブーイングを浴びることもある。

しかし、石巻で演奏したこの日は、
ひとり、ボロボロと涙を流しながら聴いてくれているお客さんが居た。
東日本大震災の時、津波によって甚大な被害を受けた釜石から、盛岡に避難したという女性だった。
当時まだ学生だった彼女は、まるで難民のように元いた場所を失い、故郷を離れ、遠く遠く移動した。そして盛岡で成長して大人になり、12年経った今、介護の仕事に従事している。
この苦難に満ちた移動距離が、そのまま彼女のつよい想像力になった。

この日はもうひとり、けっして忘れることのできないお客さんがいた。
6年前に会った時は、まだ不安げな顔をした中学生だった女の子。
「不登校で、学校に行けなくって、どこにも行き場所がなくって、思い切って初めてのライブに連れてきたんです」と母親が言った。
私自身、不登校児だったので、彼女の寄る辺なさがよく理解できた。
14歳の不登校児だった彼女は、いま二十歳になって、とびきりの笑顔を見せてくれた。あの頃、瞳に浮かんでいた寂しさは、もうどこにもなかった。偶然にも、彼女もまた介護施設で働いていた。か弱かったはずの少女が、誰かを支える立場になり、立派にやりきっている姿に胸が熱くなった。

ディアスポラのように元いた場所から切り離されながらも、自分自身の力と周囲の支えで新しい幸せをたぐりよせた彼女たちの存在に触れて、私はもういちど希望を持つことができた。

私は二人の笑顔と泣き顔を思い出しながら、楽器を片付け、電車に乗り、次の街へと移動して、また「入管の歌」を歌った。

私たちはたしかに想像力の限界を抱えている。
それでも私たちは、ウィシュマさんや、エリザベスさんや、日本の入管で衰弱死したり、自ら命を絶った、さまざまな国の人々のことを、想像し続けなくてはならない。
住民票も健康保険証も、移動や学びの自由さえ与えられないまま将来に怯える、たくさんの子供たちについて、想像し続けなくてはならない。
自分の家族のように。
親兄弟のように、我が子のように、友人のように。

そして、それぞれのやり方で支えましょう。
けして他人事にしないで。
あなたにも出来ることがきっとあるはずです。
入管法の改悪に、断固反対します。


七尾旅人


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★入管の歌
https://open.spotify.com/track/2nAiqrwhEtCh1ub656lDkU?si=c-IaGTYQSL6TdzC4tkGDGQ


★5月12日(金)19時より、国会議事堂正門前にて行われる #入管法の改悪に反対する大集会 に関する告知ツイート。
https://twitter.com/stopthebill23/status/1653744628087263232?s=46&t=Y4Oaj-k3ShA-3sKHYxlhxA

★HP
https://stopthebill2023.com

★入管問題の参考資料:
❇️ 何が問題なの? わかりやすい!入管法改悪Q&A
https://migrants.jp/news/voice/20230127_2.html
❇️ 署名と問題点のまとめ
「難民を虐げ、在留資格のない人の命を危うくする、 入管法改悪に反対します!」chng.it/FDsFzjsGGB <http://chng.it/FDsFzjsGGB>
❇️ 移民・難民当事者の声 webポスター「だから、わたしはここにいる」https://t.co/KNY5McORlR
❇️在留資格のない人びとの声〈ここにいるVOICE〉
https://www.openthegateforall.org/2023/04/VOICEs.html
❇️「入管法改悪反対!緊急院内集会ー移民・難民の排除ではなく共生をー」 ペルー少年のスピーチ
https://youtu.be/zUFTMZ2RZLY
❇️牛久入管収容所で亡くなったカメルーン国籍男性の証拠画像
https://youtu.be/0gDlZuKO8ec

noteでの記事は、単なる仕事の範疇を超えた出来事について、非力なりに精一杯書いています。サポートは、問題を深め、新たな創作につなげるため使用させて頂きます。深謝。