🍙フードレスキューの開始から40日ほど過ぎて、今思うこと。 そして皆さんへのお礼と、これからのこと。

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フードレスキューの開始から40日ほど過ぎた。

8月、デルタ株による感染爆発のなか、13万人以上の感染者が自宅に取り残され、放置された。本来なら助かるはずだった家庭まで壊れ始めた時、どうしても我慢できなくなり、Twitterで呼び掛けた。

応募が殺到したら個人では対応しきれないのでは、という懸念もあったが、近所から徐々に範囲を広げて様子を見ながら全国対応にしたのは正解だったと思う。自宅療養者の方だけでなく、コロナ失業など、孤立し追い詰められた方全般を対象にしたことも良かった。
結果として様々な街のリアリティに触れた。
けして見過ごしてはならない、その人だけの声があった。

出費は増えたが、覚悟を決めていたのでそこは気にならなかった。「自分も」と自発的にレスキューに動き出す、想像を超えるほど多くの方々が現れ、広範囲に広がっていった。
孤立しながらコロナ症状と闘っているアカウントへの、押し付けにならない程度の呼びかけ(アウトリーチ)を試みてくれたり、食料配送以外の形で、思いがけず暖かいサポートをくださった方もいた。

もっとも苦心したのは、どんな組織にも属さない一民間人としての支援を「本当に困っているけれど、声を上げられない」方の元まで周知していくことで、取材対応や告知など精一杯やったが、きっちり複数の家庭に食料送付できた日にも、常に遣り切れなさや焦燥感が残った。
実際は13万人よりも遥かに多くの人が孤立し、苦しみに喘いでいたはずなのだ。
パンク寸前の保健所がなんとか拾い上げた感染者データベースを、独自の支援に乗り出そうとする市町村すら把握できていなかった第五波までの状況は、PCR検査さえ受けられずいかなる医療サポートも得られないまま自宅で衰弱していく無数の人々を生み出した。
自治体ですら把握することが出来ない感染者家庭に、一個人としていかにアクセスするか、これがもっとも困難だった点で、激しく気落ちする日もあったが、〈練馬あったかフードバンク〉のHさんが「これは支援活動をする誰もが通る道なの。今日1人助けられたというだけでも百点にしていかないと、自分が壊れてしまうよ」と、今に至るまでずっと支えになる指針を与えてくれた。

時にはボランティアのようなものとして捉えられることもあったが、他人に対して善をなしたという感覚はいっさいなかった。自分を善人だと思えるほど呑気な性格していない。どちらかというと、一時的に家族が増えたような感覚だった。緊急時に声をかける家族が、仲間が増えた、そんな日々だったように思う。
これまでドネーションなどしたことはあったけれど、その場合なんらかの団体にお金の使い道を委ねることになる場合が多い。フードレスキューのように、未知の誰かと直接的にやり取りをして、状況の回復まで並走するという関係性を持ったのは初めてだった。大半の依頼者はきびしい症状を抱えているため、必要最低限のやり取りが多かったが、個人的なエピソードや、家族への思い、回復までの経過について文面で伝えてくれる方もいて、併走している感じは、より強まった。

そう、いちばん嬉しかったのは、回復の報告だった。

コロナ症状に苦しみ、短くきれぎれの文体だった依頼メールの方が、2週間ほどたったあたりで、別人のように晴れやかな手紙をくれた時、このレスキュー活動に非力なりに取り組んでみて、良かったなと思えた。
「あなたはこんな人だったのか」という静かな感慨があった。
互いの顔が見えず、苦しみの最中にある姿を想像することしか出来なかった相手が、ふいに穏やかな笑みを浮かべて現れる、そんな瞬間、
誰に向けたものか判然としない感謝の念が、胸の内に湧き起こった。


P.S.
怒涛の日々でなかなかnoteも書けずに居たけれど、今ようやく息をつける時間が出来てきました。
10/5に二度目のワクチン接種があったりもするので、少し生活のペースを変えつつ、秋以降の仕事を組み立て直しています。具体的には4〜7月に長尺のプロジェクトに参加して以来、半年ほど自分のアルバムRECを止めてしまってるので、それを再開させたいと思ってます。
なのでちょっと告知の頻度などは減るかもしれませんが、
第六波に備えつつ、
フードレスキューはもちろんこのまま継続していきます。
いつでも遠慮なくご連絡ください。


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〈インタビューが掲載されたメディア系リンクなど、一部紹介〉



noteでの記事は、単なる仕事の範疇を超えた出来事について、非力なりに精一杯書いています。サポートは、問題を深め、新たな創作につなげるため使用させて頂きます。深謝。