関東大震災時のジェノサイドから100年を経て、私たちの国は変わることが出来たのか? 東京都人権部によるアート作品《In-Mates》検閲事件及び、小池百合子都知事、追悼文不送付への抗議。

昨年の秋、東京都人権部による目を疑うような検閲事件について知り、どうしても気になって、知人の伝手で飯山由貴さんの《In-Mates》を観させてもらった。

深い感動と余韻が残った。私はそれを、これまで日本には存在し得なかった新しい音楽映像作品として受け止めた。
自己保身にしか興味がない都の企画には勿体ない。例えばストリーミングサービスのような、誰でもすぐ観られる場所にこの作品があって欲しいなどと内心思った。

ラッパーFUNIさんを依代として画面の中に甦る、朝鮮人AさんとBさん。いや、彼らが東京府の王子脳病院に収容されていた1930年代当時には、準日本人としての属性を政治的に付与されていた、AさんとBさん。日韓併合によって祖国を奪われ、郷土から遠く遠く切り離された精神病棟で彷徨する、二つの魂。

やがて30年代の末から朝鮮半島では、戦時動員体制を強化するため創氏改名や国語常用運動によって名前や母国語まで奪われた人々が、皇国の臣民としてより深い日本帝国との同化を強いられて行く、その前夜の光景だ。

宗主国として立ちはだかる大日本帝国という壁の、さらに壁の奥へと押し込められた二つの魂は、有りうべき自然な繋がりを絶たれ、同胞としての共振をみることなく互いに反発し、摩擦する。混濁したアイデンティティの悲痛な呻き。
やがてニーナ・シモンの名唱で知られる「I Wish I Knew How It Would Feel To Be Free」を引用しながら画面外の全ての存在へと呼びかけるエンディングまで、私は夢中で《In-Mates》を観た。

この稀に見る希望の萌芽のような作品を、日本の音楽関係者、全員に観てほしいと思った。「もし、私に知ることができたなら、自由であるとはどんな気持ちかを」これほどまでに切実に自由が希求された作品が、近年この国に存在しただろうか。

東京都人権部はこの作品について、「震災時の朝鮮人虐殺がまるで事実であるかのように描かれているが、小池百合子都知事はその立場に立っていない」と、恥知らずと呼ぶしかない露骨な日和見によって検閲し、上映中止に追い込んだが、今さら何を言っているのだろうか?

関東大震災時に起きた大規模なジェノサイドはまぎれもない歴史的事実であって、事件発生当時から積み上げられた数々の証言や絵画、文献によって証明されている。
虐殺被害者への追悼文送付を毎年拒否し続ける小池都知事の意向を忖度して、なりふり構わず自発的に歴史を修正し、過去を歪曲しようとする東京都人権部の思考回路に、大きな危うさを感じる。それは、これから形作られてゆく未来までもを不吉に歪めようとする行いであり、構造的差別のさらなる強化、煽動とも結びつく。

また東京都人権部は作中の台詞の一部についても「ヘイトスピーチと捉えられかねない」などと醜悪な言いがかりでしかない指摘を加えることで問題化してみせたが、作品の文脈を無視し、無理やり曲解してまで、ある共同体のなかに保全されてきた歴史的記憶を封殺、抹消しようとする彼らの抑圧的物言いこそヘイトスピーチに等しいものだ。

《In-Mates》はそもそも震災時の虐殺を糾弾する目的で制作されたものではないだろう。この作品は、1930年代東京の片隅に確かに存在し呼吸していたAさんやBさんらの命から紡がれ、彼らとルーツを同じくする孫世代であるラッパーFUNIさんの身体を媒介して現在へと運ばれてゆく密やかな声の連なりだ。
私的に紡がれた切実な歌でありながら、帝国主義と大戦の時代、また関東大震災という巨大な歴史の切断面を照射してこの東アジアの近現代にどのような時の流れが生じたかを刻み、これから先を生きる我々の課題と可能性を問うもので、それは国籍、民族を越えて、この星に暮らす私たち全員にとってのかけがえのない共有財産だ。
このような作品に不当な理由をつけて排除することは、自分自身を殺すことに等しい。
誰かの過去を奪い、現在を奪い、未来を奪おうとする行いは、必ず我々自身を追い詰める。
歴史の意図的な否認と歪曲によって、東京都人権部と小池百合子都知事が行なっていることは、この国で暮らす朝鮮半島ルーツの仲間たちを、あの震災から100年後にもういちど殺し、同時に我々をも殺すことだ。

なんという愚かさだろう。

100年前、1923年の福田村や検見川や妻沼では、四国や東北、沖縄などの地方出身者を、そのイントネーションから朝鮮人と誤認して、殺害した。
聴覚や発語に障害を抱えた方々が標的となったケースもある。
このジェノサイドは官民一体だった。
軍隊が、そして警察が、また多くの一般市民が、ある者は盲信によって半狂乱になり、ある者はピクニック感覚で、自分たちと異なる誰かを無理やりに見つけ出し、追いたてて、殺した。
それが正義だと信じて疑わなかった。
なんと愚かだろう。そしてなんと悲しく、恐ろしいことだろう。

かつて誤認によって隣人を殺した我々は、今度こそ曇りのない切実な目で、100年前の過ちの日々を想い、今日(こんにち)の日本と再接続させるべきだ。過ちは今も続いている。
小池百合子都知事と東京都人権部がやっていることは、誤認ですらなく、確信的な、歴史への裏切りであり、それは故意に殺すことであり、我々ひとりひとりへの裏切りだ。けっして容認するわけにはいかない。断固として抗議する。

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追記:

《In-Mates》の作者である飯山由貴さんから、明日9月1日に都庁前で行われるデモでのスピーチ依頼があり、書きました。
同業者があまりこの検閲事件に関心を持っていないように見えることが不思議でしょうがないです。メディアでも、もっと騒がれるべきだと思います。
明日は1923年の関東大震災から100年の節目となる日です。
自分はライブの準備で福岡に滞在していて伺えないため、代読頂く形になりますが、関東圏にお住まいの方はぜひ足を運んでみて下さい。
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DIE-IN & PROTEST RAVEもあるようです。


FUNIさんのこの曲が好きだ。独り進め。
https://ototoy.jp/_/default/p/1218490


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