サーカスの夜



ここ7年ほど暮らしてきた、横須賀市の外れ、後期高齢者の世帯がそのほとんどを占める谷戸の集落で、唯一の同世代であったアダチさん。

2軒隣に住むこの陶芸家夫妻のもとに、初めての赤ちゃんがやってくる、ほんの少し前に引っ越して来た我が家は、この子の成長を庭越しにずっと眺めていられる、幸せな時間を過ごした。

小さな男の子の登場は、ゆるやかに減衰し終わりに向かってゆくかのようなこのエリアのお年寄りたちにも、仄かな希望を与えていた。

最初はとても内気で、犬の散歩中などすれ違うたびに挨拶をしたけれど、恥ずかしがってお父さんの後ろに隠れてしまい、声を返してはくれなかった。
差し出がましいかなと思いつつも、旅先で見つけたものや、年齢に合わせた絵本などを時々持って行った。
3歳頃から照れくさそうに手を振り返してくれるようになり、それでもなかなか本格的に打ち解けることは出来なかったが、ある日、今は亡くなってしまった岡山の友人、沖島二朗の実家の農園で育てられている大きな葡萄をプレゼントしてから、この男の子がとつぜん僕に話しかけてくれるようになった。
満面の笑みで駆け寄って来て、可愛らしい声で、あれこれ色んな話を聞かせてくれる。果実のひとつぶは、偉大な絵本を上回るのだろうか。僕らはすっかり友達になったのだ。

あっというまに6年間が過ぎて、小学校一年生。
うちの窓から家の中を覗き込んで、「こんな散らかした部屋によく住めるよね!」なんて、大人びたことまで言うようになって。
「たしかにね、でも部屋が散らかっていない大人のことを、俺はあんまり信じてないんだよ」心に浮かんだ言葉を即座に打ち消し、照れ笑いを返す。子供の成長は本当に早い。
うちの子犬は何年たってもまだ子犬みたいな感じで、このままずっと一生、子犬のポジションで行こうと決め込んでいるみたいなのに。

いつかこの子がすっかり僕らを追い抜いてしまって、自分だけの冒険を始める日を楽しみにしつつ、それはまだずいぶん先の話だと思い込んでいたのだが。

このご家族が残念ながら、遠くへ引っ越してしまうことになり、新しく生まれたばかりの女の子もまじえて、みんなでサーカスに行って来た。

死の危険と隣り合わせの壮麗なエンターテイメントショウは、磨き上げられたプロフェッショナリズムに徹頭徹尾、貫かれていたが、以前、郷里の四国でサーカスを見た6歳頃よりも自分が少しばかり歳を食ったせいか、それぞれの演者の素顔や私生活まで透けて見えて来るような近しさも感じられ、とても立体的に楽しむことが出来た。
ある新人の空中パフォーマーは、美しくメイクアップし自信に満ちた表情のかげに、かすかな不安を忍ばせており、それが動作の細部に危うい誤差をもたらす瞬間があった。
「このひとは、どうしてこれに命をかけることにしたんだ?」
知らず知らずのうちに、音楽イベントや演劇の延長線上にあるものとして、眺めてしまっていたわけだが、我々と変わることのないささやかな悲喜を抱えた個々人の生身から生み出される過剰な幻想は、ますます切実な何かとして胸に響いて来た。

そんな自分の隣で、現役の6歳である君は、ただただ、目を丸くして、ショウを見守っていたな。君の年頃でしか見ることができない、本当の幻を。
拍手と歓声がテントを震わせた、華やかな閉幕まで、途切れることのない驚異につつまれて、その小さな身体には、あたらしい羽が生えかけていた。

この、ひなびた街にサーカスがやって来て、これまで大した使い道を見出されないまま放置されて来た造船所跡地が、巨大なテントで覆われた2ヶ月間。海沿いを蛇行する片側1車線の慎ましい県道は、今までにないほどの人通りと笑い声にあふれ、なんだか別の街を見ているようだった。

「サーカスナイト」なんていう持ち歌がありながら、サーカスについて、さしたる関心も持たずに生きてきてしまったが、自分の仕事を貫徹できなかった思いにとらわれて徒労感をつのらせる帰り道、波止場を通りかかるたびに車窓の向こうで誇らしげに輝くサーカステントは、勇気をくれたし、まちがいなくこの街に夢を与えてくれていた。

サーカスが去っていくと同時に、君も去っていく。

君が去っていき、ランプから立ち昇った雲のようなピンク色の天幕と、その周囲の居住コンテナで過酷な鍛錬を続けながら暮らしていた空中ブランコの若者や、世界中の屈強な男たち、妖精たち、マジシャンたち、ピエロも去っていく。

テントの後には元通り、古い時代の遺物が、国策によって駆動された軍需産業の名残りが虚しい空白として残される。
かつてこの街を富ませ、今はこの街を停滞させる、空白が。

本当のことを言えば、寂しい。
7歳の君を見てみたい。次の誕生日を迎えた君を。
空中ブランコを降り、エアリアル・フープを、セーフティーネットすら準備されない危ういデス・ホイールを降りて、道化のメイクを落とした後の君を見てみたい。

新しい街で、君は何を想うだろう。
人生はつなわたりの連続だけど、君ならそれも、楽しめるはず。
きっとまた、会おうね。


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