紅

【小説】紅を差す人(1)

 太陽が地面に落ちて溶けて広がったみたいだ。重そうに実った稲が風に吹かれて波打っている。きれいだ。おれは裏山から田んぼを眺めるのが好きだ。空の青と、山の緑と、田んぼの金色。俺の目玉は黒いけど、こんなにたくさんの色が見える。
 いけない。今日中に裏山の鳴子ぜんぶの見回りをするつもりなのに、ついぼうっとしてた。次の鳴子に行かなきゃ。
 仁孝さまは、美濃の合戦で徳川軍が勝っても気を緩めなかった。加賀谷の家は徳川に味方したから、一応所領を安堵されている。加賀谷の殿様はこれで大丈夫だと思ってるみたいだけど、仁孝さまはそんな甘いものではないと言う。徳川の機嫌を損ねたら、こんなちっぽけな領地はあっという間に取り上げられてしまうらしい。東の間者も、西軍の残党も、とにかく悪意のある侵入者に備えよというのが仁孝さまの命令だ。
 鳴子の糸はおれが自分で紡いでいる。目に見えないくらいの細さにするにはコツがあって、仁孝さまはよく、紅丸は器用だと褒めてくれる。おれは張り直した糸を揺すって鳴子の音を聞いた。よし、ちゃんと鳴る。おれの鳴子は畑のカラス避けみたく大きな音はしない。少し離れると、すぐに聞こえなくなる。おれは人より耳がいいから、麓の屋敷にいても鳴子の音が聞こえる。
 仁孝さまの命だから整備をするけど、本当はこんなことしなくていい世になればいいと思う。鳴子の音がしたら侵入者がいるという意味だ。殺し合いが始まる。人殺しは嫌いだ。人を殺すと自分もだんだん薄まっていって死んでしまうのだとお師様が言っていた。
「おい」
 振り返ったら、鳴子の糸と糸の間に伊都乃(いつの)が立っていた。
「ご差配がお呼びだ。ふたりで来い、と」
 ふたりで来い、のところで伊都乃はきれいな顔を歪めた。理由はわかってる。いっしょに行動すると、おれが何度も「殺すな」と言うからだ。おれが悪いんじゃない。伊都乃が殺しすぎなんだ。伊都乃は敵だから殺すべきだと主張するけど、敵か味方かわからないうちから殺そうとする。殺さずに済む方法をもっと考えればいいんだ。
「殺したり殺されたりしない命だといいなあ」
「当然そうだろう。ご差配が貴様に殺しを命じるはずはない。退屈だ」
「伊都乃は殺しすぎなんだ。人を殺すと自分が薄まってしまうんだぞ」
「またそれか。飽いた」
 話を断ち切るように、伊都乃は山を下っていった。ひとつにくくった長い髪が揺れる。でも、糸には触れない。伊都乃は顔も、忍の腕もいい。性格はちょっとアレだけど。おれは糸の残りをまとめて懐にしまい、伊都乃のあとを追いかけた。
 伊都乃とふたりで離れの書斎に行くと、仁孝さまは書を読んでいた。
「来たか。切りが悪い故、しばし待て」
伊都乃があからさまに嫌そうな顔をしたから、横から小突く。並んで座って仁孝さまを待つ。
仁孝さまはいつ見ても輪郭がぼんやりしている。背を丸めていると五十にも六十にも見えるけど、本当は四十をいくつか超えたばかりだ。座っていると小さく見えて、立つとおれより背が高い。この捉えどころのなさが仁孝さまの武器だ。どこにでも紛れ込むし、誰にもはっきりとは覚えられない。すごいなあ。どうやってこんな技を身につけたんだろう。さすが仁孝さまだ。
伊都乃はおれの隣で目を眇めて、仁孝さまをにらみつけていた。伊都乃はここに来たときからずっと、仁孝さまの「正体」を見極めようとしている。そんなことできるはずはない。仁孝さまは仁孝さまなんだ。
「すまんな。ちと確かめたいことがあってお主らを呼んだ。どうも、どこぞより内々の話が外へ漏れているらしい」
「どこぞと仰せですが、どうせ漏洩源は特定されているのでしょう?」
「伊都乃、急くな。順を追って話す」
 仁孝さまの話によると、加賀谷家の軍備のことが外にもれているらしい。仁孝さまは加賀谷の領地の内にも外にも網を張り巡らせている。その網に引っかかったんだろう。
「先代から仕える林という重臣がいてな。こやつが怪しい。殿にはまだお伝えしていない。先走って直接本人に確かめられでもしたら面倒だからな」
 うん、殿様はそういうことをしそうなお人だ。
「まずは確たる証拠をつかみたい。お主らふたり、林に張りつけ。本当に漏らしているのか確かめよ」
「確かめて、本当に漏らしていたときは?」
「知らせるだけでよい。何もするな」
 伊都乃は不服そうだけど、おれはほっとした。すぐに殺せと命じられたらどうしようかと思った。
「くれぐれも、ふたりで動け。よいな?」
「はい、仁孝さま」
「……御意」


 林という男は眉が太くて、顔が四角かった。加賀谷家の重臣って言われても、おれはお城に行ける身分じゃないから初めて見た。
 朝五つ、林は寄合所に行く。おれと伊都乃は寄合所の天井裏に忍び込んだ。林は同じ当番の人たちと領内の問題について話し合っている。この間の大雨で川があふれて、たくさんの土地が水に浸かった。田んぼや畑の被害も大きいらしい。心配だ。林たちはその地区の税をどうするかと話し合っている。
「林氏、どう思われる?」
 林より年かさの男もいるのに、林はよく意見を求められていた。信頼されているみたいだ。林の声はガラガラしていて聞き取りにくいけど、みんな一生懸命に耳を傾けている。
「減税なぞと言っていては手遅れになる。ここは免税が妥当であろう」
「それはまた思い切りのよい……しかし、それでは蔵が満たされませぬ」
「いや、林氏の言はまことにもっとも」
「長い目で見れば必ずやお家のためになるだろう」
 林は反対意見を無理にねじ伏せたりしなかった。ていねいに相手を説得している。最後には満場一致で免税が決まり、おれはほっとした。よかった。税がなくなれば餓えて死ぬ人も減るだろう。はやく土地が元通りになるといい。殿様へ申し上げるのは林の役目になった。
 昼が近くなった頃、帰宅する林を追っておれと伊都乃も移動する。伊都乃は怪しい奴がいないか見張ると言って表に残ったので、おれが一人で縁の下に潜んだ。湿った土の匂いがする。クモが分厚く巣を張っている。独り言のふりをして縁の下の仲間に秘密を教える方法もあるけど、ここしばらくは誰も床下を行き来していないみたいだった。
林は昼餉の最中らしい。たまに奥方としゃべるけど、特に怪しいことは言わなかった。食事が終わった後はしんとしている。何をしているんだろう。刀の手入れかな?
「林様、お忙しいところ失礼を申し上げます。南屋でござります」
「おお、いかがいたした。ささ、入れ入れ」
 南屋。聞いたことがある。確か、城下で一番か二番目の呉服屋だ。もしかして秘密の話をするのか? こんなに明るい内から? おれは息を殺して聞き耳を立てた。
「今日は奥方様に反物を届けに参りまして。林様がお戻りとうかがいましたので、御無礼を承知でご挨拶に参りました」
「奥が世話になっている。あれはわがままだろう? 手間をかけさせる」
「いえいえ。価値のわかる方にお譲りしてこそ、手前どもも吟味している甲斐があるというもの」
「はっはっは、それを奥に言うでないぞ。調子に乗ってもう一枚ということになりかねん」
 南屋は当たり障りのない世間話だけして帰っていった。たぶん、伊都乃が追いかけてる。おれはこのままここにいた方がいいな。
一刻くらい経った。林がまた出かけるらしいので、おれは一足先に表へ出た。ほこりとクモの巣を払って着物を裏返す。御用聞きのふりをして裏口から出ると、伊都乃が待っていた。
「南屋は無関係だ」
「うん、そんな気がした」
 伊都乃は旅装だった。笠で顔を隠せるので、よく使っている。伊都乃のきれいな顔は女にものを尋ねるときは便利だけど、覚えられやすいのが玉に瑕だ。おれは道に迷った旅人を案内するふりをしながら、伊都乃と並んで歩いた。
「奴はどこへ行く? 城か?」
「お城の前にお寺らしい。お堂を建て直してるだろう? 進み具合を見に行くみたいだ」
「ふん、よく働く奴だな」
 おれと伊都乃は林を追った。お寺に入る前に着物に手を加えて、建て直しの人足に見えるようにした。これなら林の傍を通っても怪しまれない。伊都乃は離れたところで煙草を飲みながら、周囲に目を配っている。林は迎えに出た住職にあいさつした。話はないみたいで、住職はすぐにお寺の中に戻っていく。林は今度は工事の責任者らしい男と完成予定について話した。
「刈入れ時の工事を不満に思う者もおります」
「だろうな。賃上げが最善か。寺は少しも出さんのか?」
「あの住職、なかなか吝(しわ)い男でして」
 林はお寺から直接お城へ登り、殿様にお目見えした。おれと伊都乃は屋根裏で様子を見ていたけど、お寺の工事の様子や免税について報告しているだけだった。林はとにかく忙しい男だ。お城から帰っても次々に客が来る。ほとんどが加賀谷の家臣で、林に何かを相談に来ているみたいだった。同僚だけじゃなく、臣下からも信頼されてるんだな。夕餉が終わると、林は半刻くらい書を読んで寝てしまった。
「つまらん」
 伊都乃が吐き捨てる。林に張りついてから三日が経っていた。まだ三日だ。飽きるのが早すぎる。そりゃあ、林の暮らしは毎日同じようなものだけど、つまるとかつまらないとかの問題じゃない。仁孝さまから命じられた大事なお勤めだ。
「秘密をもらしてるようには思えないな」
今日は星が多い。あちこちでコオロギやウマオイが鳴いている。林はもう眠っている。縁の下で相談したら屋敷の人間に聞こえるかもしれないから、おれと伊都乃は屋敷の外に出てきた。おれは筒声――忍が使う特別な話し方で、聞かせたい相手にしか聞こえない――が苦手だから、屋敷からも少し離れた。
「秘密をもらしてるようには思えないんだけどなあ」
 林の仕事ぶりは武士のお手本みたいだった。奥方は買い物好きだけど、家全体として無駄遣いをしている様子はない。屋敷に仕えている下男じや下女もよく働く人たちばかりだ。怪しい人間もうろついていない。
「でも、仁孝さまが怪しんでるんだから、どこかでもらしてるんだよな」
 仁孝さまが間違うはずはない。証拠がないだけで、林が秘密をもらしているに違いないんだ。きっとまだおれも伊都乃も気づいていないことがあるんだと思う。秘密の符丁で誰かとこっそりやり取りをしていたのかもしれない。明日はもっと注意深く、言葉だけじゃなくて行動にも目を光らせていよう。
「伊都乃はどう思う?」
 伊都乃はさっきから腕を組んで黙っている。
「傀儡か阿呆か。多分、阿呆だな」
「なにが?」
「後は貴様に任せる」
「えっ? だめだ!」
 ふたりでいろって仁孝さまが言っていた。
「伊都乃!」
 手を伸ばしたけど少し遅くて、俺の指は伊都乃の髪をちょっと撫でただけだった。どうしよう。がんばって走れば追いつける。でも、林の見張りが誰もいなくなってしまう。だからって、残ってもひとりだ。
まごまごしているうちに、伊都乃は闇に紛れて見えなくなっていた。なんで伊都乃はあんなに身勝手なんだろう。腹が立ったけど、怒っていてもしょうがない。ふたりでいるのはできないけど、せめて見張りだけはちゃんとやろう。おれはひとりで縁の下に戻った。

《続》

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